2009-11-06

浦島太郎の想像

ホームレスの人が街頭で販売するビッグイシューの最新号、
特集は「自閉症、その不思議と豊かさ」である。
予告を見た前号から楽しみにしていたが、
きのうやっと読むことができた。


実は私、自閉症の弟と42年も付き合っているけれど、
昨今の自閉症を取り巻く状況についてはかなりうとい。
たまに自閉症についての本や記事を読んでも、
そのたびに浦島太郎状態なのだ。


勉強不足の“浦島太郎”の率直な印象としては、
弟が養護学校に通っていた頃に比べると
ずいぶん解明が進んでいるんだなあ、ということ。


また、「自閉症」という障害についてのとらえ方も
かなり変わってきているなあ、と思う。
知的障害を伴わずに自閉症と診断される人が増えていることは
長いこと知らずにいたし。


ただ、そうやって何か新しいことをひとつ知るごとに
そうかそうかと納得する。


そうか、そうなんだ。


納得して、弟のアタマの中、ココロの中、カラダの中を想像してみる。
私たちがふつうに見ているもの、聞いているものが
彼にはどんなふうに見えて、聞こえるのか。
それをどんなふうに感じて、何を思うのか。


弟はそういうことを自分からは表現できないから、想像する。
想像しても決してわかるはずもないけれど、想像してみる。


「森を見て木を見ないのが一般人だけど、
自閉症の人は木は見えるけれど森全体が見えない」


ビッグイシューの記事の中にあったこのことばには
私のつたない想像力が呼び覚まされた。


木は見えるけれど、森全体が見えない。
単語は聞こえるけれど、文脈がつかめない。
この瞬間は見えているけれど、前後のつながりは見えない。


そういうこと、かな。


彼が突然不機嫌になったりパニックを起こしたりするのは、
そういうことだからなのかな。


42年お気楽に付き合ってきた姉は、
いまあらためて弟の中身を想像してみたりするのである。

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2009-11-01

求めない

加島祥造さんの「求めない」を読んだ。


大きな反響を呼んだ2年前の出版時から興味があった詩集である。
3日前の新聞に掲載されていたインタビュー記事を
「求めない」の加島さんとは知らずに読んで、
どうしても読みたくなった。
加島さんの温厚な笑顔にも心惹かれた。


読んでよかった。
いまの自分の気持ちにとてもしっくりきて。


私の気持ちの先を加島さんがやさしくいい当ててくれてるみたいで、
何度もくすっと笑った。
笑うとからだの力が抜けて、「求めない」ってらくちん、と思った。


モノであれ、ヒトであれ、人間はいろんなことを求める。
何かを求めることと生きていくことは、表裏一体だから。


加島さんはいう。
求めることを否定するんじゃない。
求めないですむことは求めないってことだ、と。


求めないことにすると、すごくラク。


求めても得られないことに失望し、
求める自分の執着心に嫌悪を感じ、
逆に、過剰に求められる重みに辟易し。
そんな求め求められるどろどろぐちゃぐちゃに疲れを覚え、
「私は求めないぞっ!」と肩ひじ張って意地張って、
ココロもカラダもかえってがちがちになってしまったことがあった。


でも、求めすぎたり求められすぎたりの状態から抜け出てみると、
そのうち、なんてことないじゃない、って心境になってくる。
過剰に求めたり求められたりしなければいいんだ。
要するに、とてもシンプルでいればいい。


シンプルな私でいい。
いまここに息づく私で。


ああ、らくちん。

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2009-10-26

龍馬という人

来年の大河ドラマは「龍馬伝」。
坂本龍馬が主人公である。
ということは、2010年には龍馬ブームがやってくるのだろうか。


私の中の龍馬ブームはすでに到来済みではある。
さかのぼること20年前、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んだ時だ。


「竜馬がゆく」は、もともと夫の愛読書。
彼がむかし何度もページをめくったという古びた文庫を借りて
息子がおなかの中にいた時に全8巻を読んだのである。


坂本龍馬という人の、なんと大きいことか。
そのとてつもない大きさに激しく心を揺さぶられ、
人として強い憧れの気持ちを抱いた。


もう一度読みたい、読もう、いや読まなければと思った。
しかし月日は流れ、そのうち、自分がふたたび読むより先に
息子に読んでほしいという気持ちのほうが強くなっていった。


あんまり息子にはああせいこうせいといわないほうだが、
彼が高校生になった頃から「【課題図書】として『竜馬がゆく』をかならず読むように」
と何度も伝えた。


耳にタコができるほど両親からそのせりふを聞いていた彼は、
大学生活にようやく慣れた頃、とうとう【課題図書】を読みはじめた。
いま第7巻まで進んでいるそうである。


そういえば、息子が小学2年の時には「龍馬の旅」と称して
京都と高知で龍馬ゆかりの土地をめぐったっけ。
息子はおぼろげにしか覚えていないというけれど、
行く先々で、龍馬がどんな声でしゃべり、どんなふうに笑ったのか、
いつも心に龍馬を思い続けていた旅は、濃密で充実した数日だった。


実際のところ、生身の龍馬がどんな人物だったのか想像するのは楽しい。
残された古い写真や司馬遼太郎の書く龍馬像から、
自分なりにふくらませたイメージもある。


そのイメージにぴったりの龍馬を、最近テレビで見ている。
「仁」というドラマで、私の大好きな内野さん(内野聖陽)演じる龍馬である。


とんでもないほどエネルギーが高くて、とんでもないほど熱くて、
慣習や常識がどうであれ、自分の感覚や信念に忠実にまっすぐで。
人の心を魅了する愛すべき変わり者。


龍馬って、きっとこんな人だったはず!
と、うれしくなっている私である。

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2009-09-09

見過ごせない本

私の少女時代、バレエ関係の書籍はそう多くなかった。
まして、芸術関連をあまり扱っていない一般的な書店では
ほぼないに等しかった。


いまはちょっとした本屋さんに行けば、ぞろりとバレエの本が並ぶ。
バレエの雑誌も増えていて、
ぱらぱらめくるとバレエファッションの指南まである。


バレエコーナーの書棚を前にすると、興味惹かれる本がぽつぽつ。
特に、ダンサー特有のカラダについて書かれた本は見過ごすことができない。
きのうも、ある本の背表紙に目がとまって思わず手にとった。


「アナタさあ」
そばにいた息子が目ざとくとがめる。
「買っちゃだめだよ。それでなくても読みきってない本がいっぱいあるんだから」


ま。
それもそうなんだけど。
でもこれ、すごく読みやすそうだよ。
モデルのバレリーナもきれいだし。


「はいはい。買わないで帰る」
結局息子にせかされるまま書店をあとにした。


だけど、今日買っちゃった。
この本もほかの読みかけの本も、ちゃんと時間作って集中して読む、と心に決めて。


「ダンサーなら知っておきたい『からだ』のこと」という本である。
さっそくページをめくって読み進む。
手持ちの「骨単」「肉単」と照らし合わせながら、おお、なるほど、と納得。
やさしい語り口で読みやすいのもうれしい。


骨のことも、筋肉のことも、やっとここ最近になって理解が深まってきた感じ。
断片的に聞きかじったり拾い読みしたりして散らばっていた点が
ようやく線になりつつあるかな。


勢いつけて読もうね。
勉強しよう。


体調を崩したり、落ち込んで自信をなくしたりしては、
復活する時には生まれ変わったような気分になる。


何度でも生まれ変わったらいいか、なんて思いながら
何度目かの生まれ変わりのいま、新しく湧き上がってきた気持ちがちょっとうれしい。

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2009-07-04

顔は心の窓

顔は心の窓。


脳科学者・茂木健一郎さんのことば。
「化粧する脳」のなかで、読んだ瞬間に気に入った表現だ。
とても印象的で、しっくりきた。


もって生まれた目鼻立ちは
大々的な整形でもしない限りなかなか変えられるものではないけれど、
顔が「心の窓」ならば、
まさに自分の心がけ次第でいかようにも変えられるはず、
と希望がもてる。


感情がつい顔に出てしまう、と悩む人がいる。
顔に心がストレートに投影されるということだから、
それだけ正直な人なのだろう。


ただ、その人が悩むのは
好悪どちらの感情もすべて表に出てしまうことだ。


目の前の相手に露骨にネガティブな表情を見せれば、
そこにはどうしてもネガティブな化学反応がおきやすい。


人のもつエネルギーの影響力ってほんとうに大きいのだ。
ことに自分のエネルギーが落ちているときにネガティブなエネルギーの影響を受けると、
思う以上にダメージを受けてしまう。


人間だから、否定的になったり後ろ向きになったりすることはある。
でも、習慣的にネガティブな感情に支配されていれば
顔つきも感情に連動してネガティブになっていくものだ。


ああ、もったいない。
ネガティブな感情にとらわれていたら、いいことなんかない、ってこと。


自分の心がけ次第で変えられるんだったら、変えちゃおう。
ここは手っ取り早く、笑顔で。


顔つきが感情に連動するなら、実は感情も顔つきに連動する。
ためしに鏡の中の自分に笑いかけてみるといい。
気持ちがきゅっ、と持ち上がるから。


苦しいときやつらいとき、くやしいときにも、あえて笑ってみる。
ふっと力が抜けて、眉間のシワもこわばっている心もゆるむはずだ。


ポジティブだから笑顔になれるし、笑顔だからポジティブになれる。
なにより、笑顔は周りを巻き込んであったかな空気を作り出す。
その幸せな気分が自分をますますポジティブにしてくれる。


顔は心の窓。
そして、心も顔によって育まれるのである。




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2009-06-12

気合いを入れるとき

“もじゃもぎ”こと、脳科学者の茂木研一郎さんがいう。
「脳を集中モードに切り替えるための大事なポイントは、
『体を動かす』ということである」
(「プロフェッショナルたちの脳活用法」より)


大事な場面の前に
何か自分なりの決まりごとを作っている人は多い、とある。


確かにそれはよく聞く話。
なるほど。


でも、からだを動かせなかったり、
いつもの決まりごとができなかったり、そういう状況では?


「体を動かさずにできる簡単な方法として私がおすすめするのは、
音楽を聴くことだ」


ああ、私はむしろそちらのほうが多いかも。


チャイコフスキーだったり、ベートーベンの7番だったり、
ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」だったり、フミヤだったり。
だけど、最近はもっぱらMr. Children。


朝一番で気合いを入れたいときや出かけていく道々に聴く。
で、事情が許せば合わせて歌う。
桜井さんになりきって歌う。


「Wake me up !」「彩り」「未来」「東京」「GIFT」…


鏡の中の湿っぽい顔した自分に手を振って、
些細な生きがいが日常に彩りを加えるのを感じて、
自分を信じたら未来が動き出すと心に言い聞かせて、
あとすこしがんばってみようと自分を鼓舞して、
歩き続けよう、走っていこう…


歌に自分を重ね合わせて、ひたすら前へ前へ前へ。


歌を聴いている間(もしくは歌っている間)、
私を支え、心から応援し、励ましてくれる人たちのことを思う。


私を思ってかけてくれることばが、どれだけありがたいかしれない。
その心遣いが、どれだけ心に沁みるかしれない。
もうすこしがんばれそう、まだ歩き続けられる、走っていける、と思える。


あがいても、もがいても、前に進む。
そうすれば、きっと未来は変わる。
そう桜井さんも歌っている。


あきらめないで、自分を信じて。
前へ進む。




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2009-06-10

買おうかどうしようか

2週間ぶりのレッスンで、さぞかしひどい筋肉痛がでるものと覚悟していたが、
拍子抜けするほどたいしたことなかった。
休んでいる間もそれなりにストレッチをしていたのがよかったのかもしれない。


さて、きのうに引き続き、今日はほぼ1ヶ月ぶりのトレーニングである。
あまりにひさしぶりなので、さすがにそれぞれの負荷がきつい。
そのくせレッグプレスなんて1セット多くやったりして、がんばった私。


まあ、レッグプレスは自分を追い込もうと心を鬼にしたわけでもなんでもない。
単にぼーっとしてて間違えただけだ。
本来、両脚で50㎏を15回1セット、片脚でそれぞれ30㎏を15回1セットのところ、
両足50㎏を2セットやっちゃったのである。
その後、間違いに気づいてまじめに片脚もこなした。
ふう。


すでに帰り道でカラダがみしみしきしみはじめていたので、
今夜は相当痛むことだろう。
はは、楽しみ。


そのトレーニング中、実はずっと考え事をしていた。
「あるもの」を買おうかどうしようか、自問自答を繰り返していたのである。


「あるもの」とは、トレーニングに行く前に立ち寄った書店で偶然目にした本だ。
平積みにされていたその本を何の気なしに手にとり、
ぱらぱらめくってみたら俄然ほしくなったのだ。


でも。
私は思った。
読みかけの本が何冊もあるよね。
この本をいま買って、読むの?


うーん…


この本、430ページもあって2500円もするよ。
ほんとうに読む?


うーん…


いまでなくてもいいんじゃない?
読みかけのを読み終えて、それでもほしかったらそのとき買えば?


うーん…


どうしようかなあ、と迷ったままトレーニングを終えて、また書店に寄った。
で、その本をもう一度手にした。


いま興味あることをいま知りたいよね。
いま読みたいよね。
買いましょう。


ということで、「石井直方の筋肉まるわかり大事典」、買いました。
帰りの電車ではさっそく袋から出して読みはじめた。
イラストも楽しいし、見開き2ページで1項目なので読みやすい。


あー、買ってよかった。




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2009-06-02

変人

「アナタって、ほんと変人」
息子が私を評してそういう。


「具合が悪くても、落ち込んでても、
よくヘンな歌歌ったり、踊ったりしてるよね」


死ぬ間際もきっとそうだよ、変人だから、といって笑う。


確かに。
多少具合が悪かったり落ち込んだりしていても、
結構おちゃらけたことをやったりいったりしてるかもしれない。
困難な状況で不謹慎なほどに笑っちゃうこともよくある。


なんだろう。
しぼんだりしめっぽかったりする自分を景気づけたいってことかな。
無意識にそうしてるから自分ではよくわからないけど。


変人、ね。
ま、ほめことばと聞いておこうか。


ただ、そんな変人な私でも、笑い飛ばせないことはある。


「ツレがうつになりまして。」がドラマ化されておもしろそうだというので、
録画して見ることにした。
原作のコミックは私の本棚にちゃんと並んでいる。
それこそ不謹慎なほどに笑いながら読んだものだが、
うつやうつ傾向の人を理解するのにこれほどいい本はないと思う。


しかし。
ドラマは5分と見ることができなかった。
ツレさんがベランダで下を覗き込みながら涙をぼろぼろこぼしているシーンで
ギブアップ。


ああ、だめ、身につまされる、思い出す、とつぶやく私に息子がすぐ反応した。
「見ないほうがいい、見なくていいよ」
彼はテレビの画面を変えた。


もうずいぶん前になる。
ツレさんほどではないものの、私にとって非常に苦しい時期があった。
苦しんでいる自分を笑い飛ばすことなど、これっぽっちもできなかった。
あの時は、私だけでなく家族もともに苦しかったはずだ。


「ツレがうつになりまして。」のコミックでは
はいはいはい、そうそう、よくわかる、と笑えたのに、
ドラマの映像ではあまりにリアルで笑えなかった。


幸い、私は医者の助けも借りずに短い期間で済んだが、
二度とあんな思いはしたくない。


おちゃらけて、ひゃらひゃら歌い踊って笑い飛ばせる変人の自分が
ほんとうに幸せ。
なんでもない毎日がほんとうにありがたい。


しみじみそう思う。




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2009-06-01

息子の「資質」

息子に「さあ、才能に目覚めよう」をプレゼントしたのは
ゴールデンウィークがはじまる頃だったろうか。


私も持っていて、夫も持っているのに、さらに息子に贈ったのは、
それぞれの本に記された個別のIDがないと
「ストレングス・ファインダー」にアクセスできないからだ。


2ヶ月前、私が7年前の「ストレングス・ファインダー」結果を目にしたのは
たまたまだった。
たまたまだったが、その内容をいま目にしたのは必然かもしれない、
と思った。


そこに記された私の「自分だけの特長的な資質」とされる5項目は、
まさに私そのものを表していたのだから。


満足いくように人生を自分自身でプロデュースしていくには、
どう歩んでいけばいいのだろう。
日々試行錯誤していた私に、
それは「私自身」を切り開いてわかりやすく提示していたのである。


「自分自身」を認識すると、今度は家族のことも気になる。
当時、夫がやったはずの「ストレングス・ファインダー」結果を探し出すと、
これまたとても興味深い内容。
私との共通点も、私との決定的な相違点も明快に言語化されていて、
おたがいの違いがより腑に落ちた。


特長的な資質がわかれば、あとはそれを生かすも殺すも自分次第。
「自分自身」を知ったなら、あとはそれを磨くのみ。


さあ、19歳の息子も自分の特長的な資質を知っていて損はない。
そういって彼に本をプレゼントした。


その息子が「ストレングス・ファインダー」に臨み、
出てきた結果をひとつひとつ順を追って見せてくれた。


「個別化」。
ああ、なるほど。最近この傾向は顕著かもしれない。


「収集心」。
ほう。そういわれればそうだね。


「最上志向」。
おお。父も母ももっている資質、キミもでしたか。


「ポジティブ」。
うむ。父と共通の資質。積極性は良きことかな。


そして「自我」。
私と共通の資質。


「自分では『自我』がいちばんぴんときたよ」と息子。


ああ。わかる気がする。
やっぱり、という感じで、納得。
キミも、人一倍強烈に「自分自身」でいたい、と望んでるってことだ。


いいじゃない。
磨こうよ。
磨いて、光り輝く「自分」になったらいい。




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2009-05-22

グリーンカクテル

青汁を飲みはじめた。


粉末青汁と水をシェイカーに入れて、シェイク、シェイク、シェイク。
起き抜けの「グリーンカクテル」は今朝で7日目。


「グリーンカクテル」とはうまい呼び方だと
「世界一の美女になるダイエット」を読んで感心した。
(事実、カクテルみたいにシェイカーでしゃかしゃかするし)
ミス・ユニバース・ジャパン公式栄養コンサルタントの
エリカ・アンギャルさんがそう呼んでいるのである。


そもそも「青汁」って誰が命名したんだろう。
「あおじる」という語感がいかにもおいしくなさそうでよろしくない。


実際、ずいぶん前に青汁を試飲した時には
あまりの飲みにくさにノーサンキューと思ったものだ。
どんなにカラダにいいといわれても結構です、と。


それがまたみずから進んで飲もうと思い立ったのは、
「世界一の美女になるダイエット」を読んだからである。


この本のタイトルもすごい。
世界一の美女などそうそうなれるはずもないのはわかりきったこと。
それでもこの本を買ったのは、カラダのため、
ひいては自分自身から醸し出される本当の美しさのために、
何を食べて何を食べるべきでないのかが書かれた実践的な本だったからだ。


この本を読んであれこれ納得した私は、さっそく青汁と豆乳を飲みはじめた。
ちょっとおなかがすいたときにつまむのに、
以前はよく食べていたドライフルーツもふたたび買い求めた。
甘いものがほしくなったときのために、砂糖どっさりのチョコではなく、
カカオたっぷりのダークチョコを食べることにもした。


「そんなに気をつけることないじゃない」
なぜか息子は不服そうである。
「いまだってじゅうぶん気をつけてると思うけど」


いや、とりたてて神経質にきりきりしてるつもりはないのよ。
カラダのためにいいものをバランスよく食べたらどんなふうにいいのか、
実感できたら楽しいと思うしね。


それに、私、100歳になっても元気でいたいもの。


「え? 今日で私100なの? あら、すっかりトシ忘れてた。
まだまだやりたいことあるから、まだまだ元気でいるわよ」
なんていうのが理想なんだから。


ところで青汁、いやグリーンカクテル、お味は悪くない。
ものすごくおいしいわけではないけれど、もう飲み慣れちゃった。

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2009-04-23

ほんとうの自分

読みたいと思って買いながら、
ちゃんと読んでいない本が書棚に何冊もある。
途中まで読んで尻切れとんぼ状態の本が数冊。
まだページをめくってもいないものも1、2冊。


最近、一日のなかにまとまった読書の時間を設けていないせいもあって、
読み始めたとしてもなかなか前に進まない。


本、って、ある程度勢いつけてがーっと読んだほうが流れで捉えられるものだ。
もともと読むのは早いほうでもあるから、一気に読んだほうがいいのだ。


そう思いつつも、
いまは日々空いた時間にちまちまこまこまと読み進めている状態。
で、そのうち流れが捉えきれずに中途半端になってしまう本が出てくるのである。


そんな中、「さあ、才能に目覚めよう」はいまの私としては健闘しているほうだ。
350ページという分量と、
アメリカの翻訳モノ特有のくどさに若干嫌気がささないでもなかったが、
読み進むうちにくどさにも慣れた。
なにより内容に惹かれているから、こま切れで読んでも集中が途切れない。
いまやっと240ページまで読み進んだところだから、あとすこしだ。


惹かれるのは、
なんといってもこの本によって導き出された自分の「5つの資質」の的確さだ。
何度読んでも、そのとおりだと深く納得する。


5つの資質の解説文を打ち出して、特に自分に当てはまる箇所を色づけしてみたら、
「私」という人間がよりいっそう浮き彫りになった。


人一倍認められることを望む「私」。
目標を掲げて高みをめざし続ける「私」。
他人にコントロールされずに自分の裁量だけで成し遂げたい「私」。
常に熱く燃える「私」。


ああ、確かに私だなあ、と思う。


親しい人のなかには、私の持つ資質がその人の価値と相容れないために
改めたほうがいいと助言する人もいる。
また、その人にとってはよかれと思う親切心からでも、
私にとってはすこしもうれしくない言動をとる人もいる。


そんなとき、心はかならず波立つ。
どうしてこんなに心が波立つのかと、自分でもいやになるのだが、
それも無理からぬことだったのだ。


なぜならそれは、「私」を否定されることにほかならなかったのだから。


この本を読むうちに、開き直るのとは別の意味で
「私は私でいい」とあらためて思うことができた。
というか、「私は私でいい」と自分に自信をもてた、というほうが
いい得ているかもしれない。


本のなかに印象的なことばがあった。


「ほんとうの自分でいる、そして、そうなれる人間になる、
それが人生における唯一の目的である」(バルーク・スピノザ)


ほんとうの自分でいつづけるために、
自分を信じて熱く前に進み続けようと思う。

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2009-04-17

資質を磨く

人に仕切られるのがキライである。


押しつけられること。
決めつけられること。
支配されること。


かんべんしてね、である。


7年前に「さあ、才能に目覚めよう」のストレングス・ファインダーで導き出された
私の5つの資質。
「最上志向」も「目標志向」も「責任感」も「活発性」も
どれも私をよく表しているキーワードだと大いに納得だけど、
とりわけ「自我」は「よくぞいってくれました」という感じである。


本の中に「『自我』を強みとする人の活かし方」という項目がある。
その冒頭の文章にはしびれてしまった。


「この人は独立心がすこぶる強い。
だから、干渉しすぎは禁物である。」


そのとおり、ですね。


ストレングス・ファインダーを実施した7年前に自分の5つの資質にぴんとこなかったのは、
たぶん「自我」のあたりで
「アタシ、こんなイヤなヤツじゃない…」
と思った、なんてところじゃないだろうか。
“強み”どころか“嫌み”ととらえたのかもしれない。


いまはもちろん、私を特徴づける強力な資質だと心得て
どう磨こうかと思っているところである。


本にも書かれてある。


「人生における真の悲劇とは、傑出した強みを持たないことではなく、
強みを活かせないこと、ということだ。」


「どんな資質も強みとなる可能性を秘めている。
だから、そうした自らの資質がせっかく見つかりながら、
それを実現する手助けをする職務もパートナーも見つけられなかったら、
それだけが考えうる唯一の失敗ということだ。」


人はそれぞれに特有の資質をもっていて、
私はたまたま「自分ひとりで自分の思うようにやりたい」という資質だっただけのこと。
正しいとか間違っているとかではなく、ただ私はそうだというだけ。


そして、もし私特有の資質を活かすようなやり方で
仕事なりなんらかの活動なりをしていくことができるのならば、
その資質は磨かれ、私自身光を放つようにいきいきと生きていくことができるのだろう。


そんなことを強く思うこの頃である。

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2009-04-12

三つ子の魂

ちいさいころから、脚光を浴びるのが好きだった。


といっても、「私が、私が」と我が強かったわけではない。
むしろ、幼少期は性格の強い子に押されて影が薄くなるようなところがあったくらいだ。


それでも、うれしいことは誇らしげにうれしいと表明し、
得意なことは率先して披露するのが大好きな子どもだった。
それこそ、いちばん好きでいちばん得意なバレエは、
どこでだって誰にだって踊って見せた。


私だけでなく、子どもなら概ねそういうものだろうと思っていた。
でも、どうやらそうでもないらしい、と後になってから気がついた。


小学3年のとき、同級生の女の子にすごく素敵なできごとがあった。
その「すごく素敵なできごと」がなんだったのか、いまとなっては思い出せないが、
とにかく私だったらうれしくてうれしくて黙っていられないようなことなのは確かだった。


先生がみんなの前でいったからわかったことだったが、
当の本人ははにかんだようにうつむくだけ。
それが私には不思議でならなかった。


どうして黙ってたのかな。
先生がみんなに公表しても、どうして静かにほほ笑んでいるだけなのかな。
私だったらみんなに「すごーい!」っていってもらいたいけどな。


おなじようなことが高校でもあった。
控え目でとても勉強のできる同級生に、これまた「すごく素敵なできごと」があったのだ。
(こちらも「すごく素敵なできごと」がなんだったのか忘れてしまったけど)
この彼女もやっぱり黙ってほほ笑んでいるだけ。
もちろん、彼女の口から明かされたことではなかった。


うれしくないのかしら。
私はいぶかしく思った。
みんなに知ってもらいたくないのかしら。
私だったら絶対黙っていられない。
みんなにも「すごく素敵なこと」を知ってもらって、「すごいね!」っていわれたい。


やがて大人になり、みんながみんな私のように自慢したいわけではないことを悟った。
私はいうなれば、目立ちたいのだ。
でも、世の中には「目立ちたい」と思わない人もすくなくないのである。


ただ、「目立ちたい」といっても、「悪目立ち」はいやなのだ。
目立つに値する、しかるべき正当な理由や要因があってこそ、「目立ちたい」と思うのである。


この前、「さあ、才能に目覚めよう」の「ストレングス・ファインダー」から導き出された
私の5つの特長的資質を読んで、つくづく三つ子の魂だ、と思った。
特に「自我」という資質。
子どものころから脈々と変わることなく私の中で息づいている特性である。


「あなたは、他人の眼にとても重要な人間として映りたいのです。」とある。
「具体的には、あなたの持ち前の強みによって人に知られ、評価されたいのです。」と。


そうなんだよねえ。
変わってないんだねえ。


そのうえ、「独立心の強いあなたは、(中略)好きなようにやらせてほしい、
または自分のやり方でやるための余地を与えてほしいのです。」とも。


そこは大人になってから強まったところだねえ。
独立心は、確かに強いものねえ。


この資質、「自我」ということばがいまひとつしっくりこないような気がしたが、
英語では「SIGNIFICANCE」。辞書を引くと「重要性、重大さ」。


要するに、他者から「重要だ」と評価されたいだけでなく、
自分でも自分を「重要だ」と認識したいということだろうか。


この資質、まさに私らしくて、きらいじゃない。

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2009-04-08

5つの“強み”

2週間ぶりのレッスン後とあって、さすがにゆうべから筋肉痛。
今朝はトレーニングに行くつもりでいたが、
あまりのカラダばらばら状態に予定変更。
カラダは休めつつ、デスクワークに専念することにした。


デスク周りの書類を整理していたら、
「あなたの『自分だけの特長的な資質』を見る」という印刷物が出てきた。


覚えている。
「ストレングス・ファインダー」の結果だ。
日付は2002年4月28日。
ちょうど7年前。


当時、「さあ、才能に目覚めよう」という本を夫に勧められるまま買った。
本には1冊1冊個別にアクセスIDがついており、
確かインターネット上の「ストレングス・ファインダー」にアクセスして
いくつも提示される質問に答えたんだったと思う。
『自分だけの特長的な資質』とは、そのときに導き出された5つの“強み”である。
(正しくいうと、「強みが築けるもっとも可能性の高い資質」のことで、
強みを築くために磨き上げられるかどうかは自分次第、とある)


なんだかぴんとこなかった。
しっくりこなくて、他人事のような気がした。
本がなければ「ストレングス・ファインダー」にアクセスできないので買ったものの、
350ページに及ぶその本を結局読破しなかったのは
結果に納得性がなかったからだ。


7年たって、あらためて“強み”だということばに目をやった。


妙に心に訴えかけてくる感じがする。
これって、もしかして私を表しているかもしれない、と思う。


本棚の奥から「さあ、才能に目覚めよう」を引っぱり出す。
私の“強み”だという5つのことばについての解説を読む。


笑った。
私のことだ。
誰か私を観察してた?
そう思うくらい私を言い得ていた。
確かにこれらは私の『特長的な資質』だ。


なるほど、これらの資質を尊重するやり方でないと
私はたちまちやる気をなくすのだ。


しかし、私のような資質を持ち合わせていない人から見れば
それは単にわがままであり、偏屈でしかない。
軋轢があれば、自分がいけないのかと悩みもした。
自身を生かすために自分のやり方を通そうとすれば、摩擦も生じた。


いま、5つの“強み”を突きつけられ、あらゆる謎が解けたような気がしている。
そうなのだ。
軋轢と摩擦を承知で自分の生きかた、やりかたにこだわっていたのは、
それが私のもって生まれた資質だからだ。


ちなみに、私の5つの“強み”とは、
「最上志向」「目標志向」「責任感」「自我」「活発性」である。

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2009-03-03

「すごい空の見つけかた」

きのう、雑誌の書評で1冊の本にひと目ぼれした。


「すごい空の見つけかた」。


タイトルもさることながら、表紙に目が釘付けになった。
ターコイズブルーよりもっとこっくりと濃い青空に
もくもくと広がる綿のような雲。


見たい。
この本、ほしい。


ほしいとなったらすぐにほしかった。
ネットで注文して届くのを待ってるのはまだるっこしい。
いますぐ手にとって眺めたかった。


「オレ、買ってこようか?」
息子がいう。
彼は友だちと出かける約束をしていた。


「体力が残ってたら本屋に寄ってくるよ」
ほんと? うれしい。
「で、オレがプレゼントするよ」
うわ。もっとうれしい。


はたして、彼は本を携えて帰ってきた。
私は息子からの贈りものをありがたく頂戴した。


まず表紙の美しさにうれしくなった。
こんな青い空、なつかしい。
おととしの夏は空の青さがこんなふうに濃かったけど、
去年の夏はちっとも青々しくなくて物足りなく思ったものだ。


本を開いて、ますますうれしくなった。
ページをめくるごとにさまざまな表情の空が広がっている。
心焦がれるような空、この世のものとは思えないような空、
まるで絵に描いたような空、息をのむような不思議な空…


顔がひとりでにほころんでいた。


左のページに空の写真があり、右のページにその解説。
写真と文章は、空の写真を30年以上撮り続けている武田康男さん。
気象予報士で、高校教諭でもあるという。


科学的なことにはほとんどむとんちゃくだった私だが、
武田さんのやさしい解説で空に対する新しい視点をもらった。


ありがとう、武田さん。
ありがとう、息子。


今日も窓から空を仰ぎ、いつもの交差点で空を見上げて笑っていた私である。

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2008-12-24

クリスマスイブに

今日になって、なんとなくクリスマスの飾りつけをしてみた。


ドアにリースをかけたら、開けるたびにベルが可愛らしくちりちり鳴る。
リビングと玄関にはそれぞれちいさなツリーを置いて
こまごまとクリスマスグッズを並べる。
息子が幼稚園で作った紙粘土のサンタさんも
ひさしぶりに見ると素朴で温かな味わいがいい。


実は、これらのクリスマスものはみんな
ずいぶん前にクロゼットの奥から出してはあった。
結局何日も飾りそびれて、
私の部屋にごたごたと集結させておくのもそれはそれでいいかな、と思っていたら
「さすがにちょっとはリビングに飾らない?」と息子。


今日と明日の2日間だけの飾りつけになったけど、
やっぱりそれなりに雰囲気が楽しめていいもんだな、と思う。


雰囲気が盛り上がったところでクリスマスイブ。
わが家では特別なことは何もなし。
息子の冬期講習が遅かったので、ふつうに食卓を囲み、ふつうにごちそうさま。


プレゼントも特になし。
息子は「ほしいものは何もない」という。
「いまほしいものは、志望大学の合格キップ、ただひとつ」


私は誰にも贈り物をしないくせに、自分にはちゃっかりプレゼントをした。
ずうっとほしくて、でも買おうかどうしようかずうっと迷っていた本を
きのうとうとう買ったのである。


「クラシックバレエテクニック」という。
7月に本屋で偶然見つけたときからずっとほしかった。
写真付きバレエの辞書・指南書みたいなものだ。


分厚く重たいこの本をすぐに買わなかったのは、
手元に置いても役立てる自信がなかったからだ。
そこにはたくさんの魅力的な情報が満載ではあったけど、
その時の私には手に余りそうな気がしたのである。


いまやっとこの本を手にしてみると、その感覚は間違っていなかったと思う。
いまだからこそページをめくるごとに深く納得できるけれど、
あの時だったらいまひとつしっくりこなかっただろう。


日々稽古し、先生の注意を伺い、何度もからだで確認し、
時としてひらめいたように新たなことに気づき、
そうしたことを繰り返すうちにばらばらの断片がカタチを成していく。
バレエだけでなく、トレーナーに教わったことや、
ホリスティック・コンディショニングで学んだことも、
気がつけばつながっている。


そんないまだからこその本だった、としみじみうれしい。
物事にはふさわしい時期というものがあるのだろう、と思った。


さて。
明日のクリスマスは息子が久々に予備校の休み。
ささやかなクリスマスディナーを楽しむつもりである。

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2008-11-23

アホ

スキーヤーで登山家の三浦豪太さんが
日経新聞夕刊におもしろいコラムを書いていた。


コラムのテーマは「アホ」。
遺伝子工学の第一人者である村上和雄名誉教授と
ある雑誌で「アホになることについて」対談したのだという。


村上先生は「アホは神の望み」という本を出してらっしゃるので、
そのつながりだろうか。
(ずいぶん前に、先生の「生命の暗号―あなたの遺伝子が目覚めるとき」を読み、
以来、「良い遺伝子のスイッチをみずからONにするぞ」と意識するようになった。
「宮本亜門のバタアシ人生」にも、亜門さんと先生の対談が収録されている)


さて。
豪太さんがいうところの「アホ」とは。


「焦らず、おごらず、腐らず、陽気に笑い人を笑わせ、不器用だがすべてに前向きに取り組み、
回り道をするが最後には大きな答えにたどり着く人」だという。


で、豪太さんはお父さまの雄一郎さんを「アホ」だとほめている。


雄一郎さんのお名前が出てくると気がひけるが、
「アホ」の定義を読んだとき、実はとても親近感を覚えた。
私もかなり「アホ」に近いんじゃないか、と。


「焦らず、おごらず、腐らず」…


焦っても事態が変わらないなら焦ったってしょうがないと思ってるし、
おごるようなことははなから何もないし、
腐ったって何かがうまくいくとも思わないから腐るだけエネルギーのムダだと思うし。


「陽気に笑い人を笑わせ」…


よく笑う。
具合が悪くてよろよろしてる時でさえ、
へらへらくだらないことをいって笑っているので、息子によくあきれられる。
私が笑えない時はよっぽどだ、とも。


「不器用だがすべてに前向きに取り組み」…


不器用だ。
でも前向きに取り組むほうだと思う。


ここまでほぼ定義とぴったり。
でも、締めで自信がなくなる。


「回り道をするが最後には大きな答えにたどり着く」…


回り道をしているような気はする。
だけど、それで大きな答えにたどり着けるかどうかなんて
自分ではわからない。
もしそうなら、こんなうれしいことはないけれど。


そういえば、市原悦子さんにいわれたっけ。
「花開かなくたっていい。続けること」
無理に花を開かそうと思わないでとにかく続けていたら、
そこには何かがあるってことかもしれない、と胸に刻んできたことば。


不器用だから、これ、と信じたことを愚直に続けるしか能がない。
要領よく上手に立ち回る才もない。
即座に成果を求めたがる人なら、何を悠長な、といらだつことだろう。


でも、それがいちばん、私が私らしくいられるやり方だ。


もしそれで大きな答えにたどり着けるなら…
ちょっと自信をもってアホでいられるかな、と思う。

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2008-11-16

思考派、直感派

「宮本亜門のバタアシ人生」は、
亜門さんと「11名の人生を謳歌する人達」との対談、
それに亜門さん自身の半生について書かれた本である。


さらさらっ、と読み進むのはもったいない気がして、
一言一句かみしめるように読んだ。
自身の生き方や想いについて語るそれぞれのことばには、
簡単に読み流すことのできない重みと真実味があった。


ところで、11名の対談者の中に、須藤元気氏がいた。


私は格闘技にまったくもって興味がないけれど、
彼はプロの格闘家だった頃からちょっと気になる存在だった。
たぶん新聞か雑誌で彼のことばを読んだのだろう。
本質を突きながら、ひねたところのない素直な考え方に共感を覚えた。


さて、亜門さんとの対談の中で彼はこう語っている。
「直感に従っていけば間違いないと感じています」


彼はいう。
目標や夢を実現するために、人は考えてしまう。
考える、というのは損得勘定で判断すること。
それよりも、面白い、楽しいと思うものを感じるだけのほうがうまくいく、と。


ああ、なるほど。
私のおなかにすとーんとはまることばだった。


割と長い間、私は自分を「思考派」に変えようとしてきた。
物事は論理的に考えなければ。
何かを判断する場合にはまずメリット・デメリットを列挙しなければ。
よりよく思考するための技術も身につけなければ。
とにかく、フルに考えなければ、頭を使わなければ、と自分に強いてきた。


しかしここ最近、実はそれが私という人間にとってはキツイことだと
うすうす勘付きはじめていた。
時に、計算高く駆け引きしなければならない場面ではお手上げである。
できないのだ、私には。


須藤元気氏のことばを読んで、そもそも自分は「直感派」なのだと再認識した。


基本的な判断基準は、自分の直感。感性。心の声。
好きか、嫌いか。
いい感じか、やな感じか。
人の話を聞くときも、自分の直感に従って耳を傾けていくのが私本来のスタイル。
踊る時だって、音が流れ始めれば魂を解放し、感性に導かれるまま。


そうか。
そうだよね。
もともと直感で判断するほうが性に合ってる。


苦手なことにチャレンジし、努力するのは悪いことではない。
「思考」するのも大事なことだ。
しかし、無理はよくない。


考えるよりも感じること。
はじめから、そのほうが好きだったのだ。
だったら、素直にそれでいけばいい。

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2008-11-09

陽気だけれど…

陽気な友だちがいる。


冗談はいうし軽口はたたくし、いつも目が笑ってる。
つられて笑えば、からだの中から温度が上がる。
会うといつだってエネルギーをおすそ分けされる。


友だちをよく知らない人の中には、
上っ面だけ見て「軽いヤツ」と勘違いする人もすくなくない。


でも、私はよく知っている。
友だちがけっしてへらへらした軽薄人間じゃないってことを。
軽薄どころか、根は硬派なんだってことも。


そんな友だちが私には何人かいる。
みんなポジティブで、楽天的に物事を考える愉快な友だちだ。


でも、友だちは“脳天気”ということではない。
むしろ、繊細で傷つきやすい感受性の持ち主たちである。


そういう友だちにひさしぶりに会う。
会って楽しいひとときを過ごし、しばらくしてからはっとする。


へらへら笑って話してたけど、あれってものすごく深刻な状況だよね、と。
よくよく考えてみたら笑えない話。
それを、なんでもなかったみたいに軽やかに話していたことに思いが至って
ふいに胸が衝かれる。


たぶん、渦中にあったときは苦しかったはず。
ひとりつらい思いをしたはず。


でも、後日談になっているときにはすでに友だちの中では消化済み。
どこかの笑い話みたいに話して聞かせるのだ。
泣き言をいう代わりに笑い話にして、前に進む糧にしている。


そんな友人たちの親玉みたいなのが宮本亜門さん。
…と、私は勝手に思っている。


お陽さまのような亜門さんの明るい笑顔と輝かしいキャリアからは、
彼の波瀾万丈な半生はなかなか想像できない。
登校拒否、自殺未遂、引きこもり…
悩み、苦しみ、あがき、もがいた日々があったと知ったときには
大変な衝撃を受けた。


今日、その亜門さんの新刊本を買った。
「宮本亜門のバタアシ人生」である。


読むのはこれからだ。
亜門さんの「突き抜けた強さ」の根源に触れられるはずだと
期待している。

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2008-11-06

どうしたら

新聞でも雑誌でも、
うまい文章に出会ったときには思わずうなってしまう。
比喩じゃない。
ほんとうに「うーん」とうなる。


どうしたらこんな表現が出てくるんだろう。
絶対に思いつかないような言い回し。
だけど心にしっくりはまって鮮明にイメージされるフレーズ。


うーん。


文章のプロだから、といってしまえばそれまでである。
才能の違い、というのももっともである。
磨きぬかれた感性ゆえ、ともいえるだろう。


書棚から本を取り出し、ページをめくる。
石田衣良さんとか、角田光代さんとか、森瑤子さんとか。
前に読んだ時はさらさらといとも簡単に読み進めてしまったけれど、
ひとつひとつのことばをかみしめるように読んでみる。
またため息をつく。


なにげなくさらりと書いてあるからするするとひっかかりなく読めるが、
実はとても吟味されたことばであり、文章なのである。
技巧に走りすぎると違和感を覚えるものだけど、実に自然。
自然だけど、うまい。
心情が絵のように浮かぶ。


どうしたらこんなふうに書けるんだろう。


そんなふうに思うことがいかに身の程知らずなことか重々承知している。
わかってはいるけれど、
もっと自分の心情や考えをズレのないことばで表現したいと思うから。
誰かの借り物でない、自分のことばで表したいから。


バレエもそうだった。


どうしたらあんなふうに踊れるんだろう、と若い頃よく思った。
特にバレエ団のレッスンを受けていた修行時代は、
バレエ界の第一線で活躍している先輩たちの踊りを間近に見ながら
自分の動きとどこがどう違うんだろう、と毎日試行錯誤した。
海外の大好きなダンサーの舞台を観れば、
何度もまねして動いてみたり、頭の中でイメージしてみたりした。


でも、短い期間で自分でも踊りが変わったのを感じた。
うまい人たちの踊りが私の目に、肌に、毎日シャワーのようにふりそそぎ、
感性に刺激を与え続けたからだろう、といまになって思う。


そうか。
やっぱり「うまい」と思うものを、まずはたくさんインプットすること、かな。
好きな作家の好きな文章をいっぱい読んで。
堪能しながらため息ついて、そのうち主人公に感情移入して…


またそれも楽し。

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2008-11-02

なつかしい本

私のデスクの両脇にはスチール製のラックがある。
その左側のラックには、下2段に書類のファイル、
上3段にありとあらゆる種類の本が並んでいる。


石田衣良さんや角田光代さんの文庫も、
ジョン・エヴァレット・ミレイの展覧会の図録も、
解剖学の骨単・肉単も、
シェイクスピアや草刈民代さんやイチローや市原悦子さんも、
そして自分の著書も、ごちゃごちゃに。


本はほうっておくとどんどんふえていくが、収納できるスペースには限りがある。
時々、手放してももう胸が痛むことのない何冊かとお別れする。
そのお別れの儀式を何度も繰り返した中で、
長年どうしても手放せなかった本たちはリビングの書棚におさまっている。


今日、ひさしぶりにリビングの書棚のガラス扉を開けた。
いちばん上の奥に、森瑤子さんの単行本が数冊。
どれかにサインがあったはず、と取り出して表紙をめくってみる。


あった。
「Dear Atsuko   Yoko Mori  森瑤子 1988 3/22」と。


20代の前半、森瑤子さんの本が好きだった。
小説も、エッセイも、新作の単行本でも文庫でもかたっぱしから読んだ。
感情の機微を書くのがほんとうにうまいのよ、とよくいっていた母の影響だった。


正直にいおう。
20代はじめのまだまだ青臭い私には、
実のところ、森瑤子さんの描く大人の女性は遠い存在だった。
成熟した女性ゆえの微妙な感情の揺れも、複雑な気持ちの変化も、
その頃の私にはいまひとつわかりえなかった。
精神的に自立した女性に憧れて、
多分に背伸びして読んでいた、といわざるを得ない。


それでも、私は森瑤子さんに救われている。


あることに長く深く悩んでいたとき、
森瑤子さんの小説のことばによって迷いが吹っ切れたのである。


「やらなかったことを後悔するより、してしまったことを後悔するほうがいい」


なんという小説のどこに書いてあったか覚えていないのだが、
確かこんなことばだった。


おなじようなことばを、その後ほかの人が何人も書いているのを読んだし、
話しているのを聞いた。
でも、私にとってはあのタイミングで、森瑤子さんが書いていた、
ということが重要なのだった。


あるホテルで森瑤子さんのお話を聞く会があった。
私は講演が終わるやいなや宴会場を脱兎のごとく抜け出し、
会場をあとにする森瑤子さんに声をかけた。


息を弾ませながら、私は感謝を述べた。
ずっと迷いの淵に漂っていた私を救ってくれたことばと、
それを書いた森瑤子さんに。


5年後の7月、私は森瑤子さんの訃報を新聞で知った。
衝撃と喪失感にことばもなかった。


今日、ひさしぶりに森瑤子さんの本を読んだ。
「感情の機微を書くのがほんとうにうまいのよ」という母のことばが
はじめてしっくりはまった。

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2008-08-03

オーラ

この間、ひとまわり下の友だちに
「オーラ!オーラ!!オーラ!!!」という本をプレゼントした。


「意外です」と彼女。
「そういうのに全然興味なさそうだったから」


それは当たってる。
ついこの間まで、オーラとか守護霊とかまったく関心なかったもの。
でも、知り合いに
「あなたはたくさんの守護霊に守られているわよ。オーラが見える」
といわれてから、俄然興味がわいたのだった。


本を受け取った彼女、「私は大好きです」とにっこり。


もしかしてそうじゃないかと思った。
私たちにも人のオーラが見えたら素敵だよね、と話が弾んだ。


「オーラ!オーラ!!オーラ!!!」の著者は、木津龍馬さん。
バレリーナ・草刈民代さんのメンタル&フィジカルトレーナーである。
木津さんのことはつい先日民代さんのHPで知ったのだが、
すでに10数年にわたって民代さんをサポートしているという。
特に、食事療法における影響力はかなり大きかったようだ。


そうしたトレーナーである木津さんはまた、ヒーラーでもある。
オーラが見えて、いわゆる「癒し」を行う人。


ふーむ。


結構納得。
半年前の私なら「?」「?」「?」だったけど、いまは「ほう」という感じ。


カラダのコンディショニングに関わると、
究極のところは精神的なところとか、人のもつエネルギーそのものにいきつくのかな、と。
ホリスティック・コンディショニングの勉強でもずいぶんその部分に触れたし、
再三いわれたのは「考えるより感じよ」ということだったし。


私に「守護霊」のことをいってくれたのも、ホリスティックの仲間だった。
ひとまわり上のその方は、病の人を大勢見てきた治療系の方である。


「どうやってオーラが見えるようになったんですか?」
と聞いたら、たくさんの人を見るうち感じるようになり、見えるようになったという。


「『気』なのよ。『気』。目の力や肌のつや、声にも『気』は表れるの」


なるほど。
オーラそのものが見えるか見えないかは別として、
その人のもつエネルギーを感じとるんだということはわかった気がした。


確かに感じることがある。
強力なプラスのエネルギーも、どんよりよどんだようなマイナスのエネルギーも。


むだなものをそぎ落とし、シンプルになればなるほど感覚は研ぎ澄まされ、
研ぎ澄まされていけばいくほど、感じる力も敏感になっていく気がする。


マイナスのエネルギーに振り回されず、
力むことなくプラスのエネルギーを高められたら理想的。


シンプルであれ。
考えるより感じよ。

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2008-07-28

おなじ思い

高校1年の夏、私は「スター・ウォーズ」の虜になった。


こんなに痛快でかっこいい映画は観たことがない。
できることならお弁当持参で朝から晩まで何回でも観たい、と本気で思った。


「すごくおもしろい映画があるんだよ」
そういって私は幼なじみを誘った。


当然、彼女もその魅力にとりつかれるはずだ。
そう思うと私はわくわくした。
何回観ていく?
2回? 3回でもいいよ。
当時は完全入れ替え制じゃなかったし、
夏休みの高校1年生に時間はあり余るほどあった。


ところが、観終わった後の彼女の反応は予想外だった。
可もなし不可もなし。
あえて表現するならそんな感じ。


何の感想も述べずににこにこする彼女は「さ、行こう」と私を促した。
ここのプログラムは終わったから次に移ろう、というかのように。
私の熱い思いは宙に浮いてしまった。


しばらくして、クラスメート数人で「スター・ウォーズ」を観に行くことになった。
しかし、当日何人かは都合が悪くなり、結局一緒に行ったのは私を含めて3人。
その3人は「スター・ウォーズ」を通じて親友になった。
熱い思いを共有して、友情の絆が深まったのである。


さて。
今日、ハリー・ポッター最終巻を読み終えた。
その瞬間をいまや遅しと待ち構えていたのは、誰でもない息子である。
息子にとっては、熱い思いを語り合える仲間がようやくできたのだ。


ふたりして大いに語り合った。
なにせ上下巻ともに衝撃の連続だったから、話は尽きることがない。
何度もふたりして顔を見合わせてはため息をついた。


息子が1日で読破し、「すごい」といったのがよくわかる。
まさに衝撃的なのだ。
いろいろと。


いま、私たちふたりからバトンを渡されて、夫が最終巻を読んでいる。

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2008-07-27

寝不足のわけ

このところ寝不足続きである。
最低限6時間は確保したいところだけど、なかなか。


ぐっすり濃密に眠っているおかげで朝の目覚めは案外すっきりしている。
ただ、毎日「今夜こそ早めに寝とこう」とは思うのだ。
質も大事だけど、量も必要だから。


でも。
悩ましいけど、早くに寝られないのである。


夜が深まるにつれ、カラダの感覚は鈍くなっていく。
時にふっと意識が遠のきそうになる。
異常なほどにまぶたも重くなる。


睡魔に身をゆだねてしまえば、ラクになるのだ。
しかし、私は必死で抵抗を試みる。
さすがに耐え切れず、目をつぶってしばし休眠することもある。
それでも、数分後には眠気を無理やりはぎとり、また復活する。


意識が朦朧として、何をどうがんばってもまぶたをあけていられなくなったとき、
私は観念して眠りにつく。


そこまでして私を駆り立てているものとは何か。


ハリーだ。
ハリー・ポッターなのだ。


木曜に読み始めて、今日上巻を読み終えた。
下巻はすでに半分まで読み進み、
気持ちとしてはこのまま一気に結末まで駆け抜けたいところ。
でも、結局のところまた途中でまぶたをあけていられなくなることだろう。
そうしたら、続きは明日。


私が登場人物に感情移入して「ああ」などとため息をつこうものなら、
「どこ読んでるの?」と息子がのぞきこむ。


息子としては、私に早く読み終えてほしいのだ。
あの展開は意外だったとか、あそこは思わずぐっときたとか、
思いを共有したくててぐすねひいて待っている。


ハリーの運命やいかに。
私も早く知りたい。
17歳のハリーが対峙するものを。


今夜も意識不明の間際までページを繰る覚悟。

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2008-07-24

ハリー最終巻

きのう、「ハリー・ポッター」の最終巻日本語版が発売された。
上下巻あわせて1100ページ余り。
それを息子は一日で読破した。


「予想以上だったよ」と息子。
「やっぱりすごい」


実は発売になる前、息子も私も期待感がやや薄かった。
前作にちょっとした失望感があったせいか、
「どうしても読みたい!」という熱いきもちが湧き上がってこなかったのである。


「でもさ、」と発売日前日に息子がいった。
「やっぱり読まないと気になるから、とにかくがんばって読んじゃうよ」


夏期講習の予習復習に追いまくられ、時間がないと焦っている時だからこそ
一気に読んですっきりしたいというわけだ。
そのために、予習も前倒しでやったという。


でも、まさか一日で読破できるとは本人も思っていなかったようだ。
夏期講習を追えて帰宅後、13:30から読み始め、
いつもならゆったりする夕食やお風呂もさっさと切り上げ、
読み終えたのは2:30。
ゆうべの地震の時も読んでいた。
実質読書時間12時間。


「いままでで最短だよね」と息子が満足げにいう。
「達成感だよ」


いままでなら、私のほうが読む速度は早かったはずだ。
「きっと最近の勉強のおかげで集中力が高まってたんじゃないかな」


それはいいことだ。
プラスして、時間がない中で急ぎ読了してしまいたいという思いが
集中力をさらに高めたのだろう。


「早く読んでよね」
そういって最終巻の2冊を息子から手渡された。


うーむ。
読みたい気持ちは山々なれど、読書だけに時間を割いていられない状況。
それでも、移動の電車で50ページは読んだ。


帰宅後、すこしゆっくり読む時間が取れるかな、と思っていたが、
洗濯乾燥機が故障していることが判明。
外出前に乾燥をセットしておいたタオルが乾いておらず、
ヘンだな、と思ったらドラムが回転していなかったのだ。


仕方なくまだら乾きのタオルを浴室乾燥で乾かすことに。
いつもならふんわり乾いているはずのタオルが、ごわごわのがびがび。
やれやれ。


それにしても、ドラムが回転しないってことは、
洗濯そのものも脱水もできないってことだ。
修理依頼の受付時間は過ぎちゃっているし、
いつまで洗濯ができないんだろう、とちょっと暗澹たる気分に陥る。
でも、気を取り直して汗びっしょりのレオタード類とか家族の下着類を
手洗い&手絞りで浴室に干す。


あーあ。
今日は50ページから先にはもう進めそうにない。
週末なんとか時間を作って読破するつもり。

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2008-06-30

3週間で3kgだって

ターザンの最新号を買った。
今回のテーマは「夏までに3kg痩せる、3週間ダイエット!」である。


3週間で3kg。
かなりハードだ。
ほんとうにできるのかな。


とはいえ、私自身は3日で3kg落としたことがある。
パ・ド・ドゥのパートナーとの集中リハーサル中のことだ。


1日目に1.5kg、2日目に1kg、3日目に0.5kg。
稽古に長時間とられ、帰宅後は疲れで食欲が落ち、という状況で
「落とした」というより、結果的に3kg「落ちた」というほうが正しいかもしれないが。


中2の時に組んだことのあるパートナーは
稽古の初日、高2の私をリフトするや「重いっ」と顔をしかめた。
3日後、ベスト体重に戻った私を持ち上げた彼は「これでよし」とうなずいた。
余計な重みで負担をかけずにすんだことと、
ぽってりもっちりした自分が元に戻ったことですごくほっとした。


急激に体重が減ったのは後にも先にもこの時だけである。


ただしその後私は、食べなくても太り、動いてもやせず、という
非常に苦しい数年を過ごすことになる。
年頃のホルモンバランスのいたずらか、ストレスによるものか、
いずれにせよ、やせたくてもやせられないつらさを存分に味わった。
やせていることが前提条件であるバレエの世界にあっては
実に屈辱的な時期であった。


とはいえ、「食べずに動く」がダイエットの近道であるのは確かだ。
「食べずに」というのは余計に食べない、ということ。
必要な分だけ食べ、からだを動かし消費する。
からだを動かして筋肉を増やせば、基礎代謝量が上がって太りにくくもなる。


96歳のいまも現役でばりばり活躍なさっている日野原重明先生はおっしゃる。
仕事でも何でも集中してやっていたら空腹は感じない。
カロリーを取りすぎるのはよくない、と。


さて、ターザン。
いまの私が3kg落としたらかなりのガリになるのでやめとくとして、
ターザンだったらダイエットにどんな食事内容やトレーニングをすすめるのか
興味があった。


それに、いま息子が「脂肪と体重を落としたい!」といっているのだ。
スリムな彼ではあるが、本人としては受験期に若干増えた体重と脂肪量を気にしている。
予備校の合い間にジムでトレーニングをし、間食も控えているが、
「減らない~」と嘆いている。


わかるよ、そのきもち。
健康で、なおかつ理想的な体型であるために何らかの工夫が必要なのであれば
すればよし、だよね。


ちょっとターザン熟読しましょ。
いい知恵があったら息子に伝授せねば。

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2008-06-22

わくわくする本

「最近さ、話が見えないことが増えたよね」と息子。


なに?
マナカナもザ・たっちも真っ青になること間違いなし、
ってくらいに息ぴったりのキミと私で、
話が見えない、とは何ゆえ?


「だってさ、『○○筋』がどうした、とか『△△骨』がなんだ、とかいうじゃない。
よくわかんないんだよね」


あ、それは失礼いたしました。


いままでなら「足がヘン」というところを
「足根骨がずれてる感じ」なんていうし、
「太ももがぱんぱん」でいいのに
「大腿直筋を使い過ぎたみたい」とかいうし。


確かにわかりにくかったよね。


そういう私だって、つい2ヶ月前には「○○筋」も「△△骨」も
なにがなんだかわからなくて、途方に暮れていたのにね。
これからは「外側広筋が過緊張、つまり太ももの外側あたりがかたい」といおう。
(くどいけど…)


ただ弁解めいてしまうのを承知でいうが、
気になったときに筋肉や骨の名称・形状を調べて
何度も声に出していってみると覚えるのだ。
知識が増えていくと、それはそれで楽しいし。


そうしたすこしずつの積み重ねもあり、
きのう買った本は読んでておもしろくてしょうがない。


「インサイド・バレエ・テクニック」。
著者はダンサー出身のヴァレリー・グリーグ。
運動生理・解剖学を学び、独自に研究を重ねた結果、
機能解剖学的に正しいバレエのレッスン方法を著すにいたった。


もし、私がトレーナーに出会っていなくて、
ホリステッィク・コンディショニングの勉強をしていなかったら、
手にとることのなかった本だろう。
よしんぱページをめくることがあったとしても、
何が書かれているかよくわからず、退屈してほうりだしてしまっただろう。


日々「○○筋」だの「△△骨」だのを意識し、
からだが動く不思議に感動している身にとっては
一字一句「はいはい、そうですよね!」「ああ、そうです、そうです!」と
いたく納得して読めるのだ。
(また、ページのいたるところに「○○筋」「△△骨」がちりばめられているし)


読むのと並行して、自分のからだで実践もしていくつもり。
いままでもトレーナーや先生方によって
私自身のからだの使い方の誤解が解かれたり、
新しい示唆を与えられたりしてきたけれど、
この本によってまた新たな発見があるはず。


考えただけでわくわくする。

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2008-03-28

本屋にて

高校生の頃、学校帰りによく本屋に寄った。


自宅と繁華街は学校から見てまったくの逆方向だったが、
私はまっすぐうちに帰るよりも街に出ることのほうが多かった。
そして、本屋に行ってはバレエや演劇の情報を求めて本を探した。


いまのようにインターネットもなかったし、雑誌の種類も非常にすくなかった。
だからこそ、情報に飢えていた。
わずかな情報を求めて、かわりばえのしない棚を目を皿のようにして眺め、
演劇雑誌の最新号が出ていればむさぼるように立ち読みした。
バレエの本を見つければ、値段とお財布の中身とを何度も照らし合わせて
買おうかどうしようかしばらく悩んだ。


高校生にとっては、演劇雑誌もバレエ関係の書籍も高価だったのだ。
ただ、「新劇」という月刊誌の定期購読を父が申し込んでくれたおかげで
東京の演劇事情については自宅でゆっくり読むことができるようになったが、
それでも知りたいことはもっともっとあった。


その後、バレエの勉強で東京に出てくると、渋谷の本屋によく行った。
そこは芸術関係の書籍が仙台とは比べものにならないほど揃っていて、
何度行っても飽きることはなかった。
どれも高かったからなかなか買うことはできなかったが、
こんな本があるのか、と興奮を覚えながら手にとるのが何よりの楽しみだった。


今日、ジュンク堂に行った。
地下から9階まですべて本で埋め尽くされている巨大書店。
ここに行けば、たいていのおめあての本は手に入れられるはず、
と思わせてくれるほどの品揃えだ。
あまりに種類が多くて見つけ出せない可能性がなくもないが。


道行く人が次第にちいさくなっていくのをガラス越しに見おろしながら
エスカレーターでどんどんあがっていき、9階に行く。
バレエコーナーに向かうと、そこには驚くほどたくさんの種類の本が並んでいた。


初心者向けの指南書なんて、昔じゃ考えられない。
写真をふんだんに使った雑誌も種類が豊富。
DVDもどれを観ていいかわからないほどたくさんある。
時代は変わったなあ、と隔世の感がある。


たくさんありすぎて圧倒されそうになりながら、私は1冊の本を手にとった。
「バレエ用語辞典」。
そんな本があってもいいんじゃないかと思っていたが、やっぱりあった。


バレエ用語はフランス語だ。
それゆえ、口伝えで教わっていく中で、まちがったいい方で覚えたものは多い。
先生がまちがえて教えたのか、子どもだった私が聞きまちがえたのか、
後々にちがっていたことに気づいたものは結構ある。
レッスンを受けているといまだにそういう発見があるのだ。


それと、ブランクが長かったためにあいまいになっているものも多い。
からだで覚えていることを用語として言語化しようとすると途端にあやしくなったりする。


ページをめくってみると、細かい文字がぎっしり。
まさにバレエの動きを用語として言い表わし、言語化しているのだ。


おもしろい。
でも高い。
どうしよう。


しばらく書棚の前で悩んでいたら、待ち合わせの約束をしていた息子からメールがきた。
とりあえず保留、ときめてバレエコーナーをあとにした。




★朗読「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」、更新しました。

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2008-03-11

声を出して演じること

20世紀バレエの鬼才、いまは亡きモーリス・ベジャール。
20歳の時、彼率いるカンパニーの舞台を観て
「そんなのありなの?」と衝撃を受けた。


ダンサーが舞台上でセリフをいったのである。


私にとってそれは、まさに新しい世界だった。
それまで私が信じてきたバレエは、
ことばの力を借りずに踊りだけで表現するものだったのだから。


もともと、セリフを話しながら演じることは
私には踊ることの次に関心の高いことだった。
少女時代、歌うことには自信がもてそうになかったので
ミュージカルに出てみたいとは一度も思わなかったが、
お芝居はやりたいとずっと思っていた。


どうしてだろう。
子どもの頃から、声を出して演じたり読み上げたりするのが好きだったのだ。


だから、クラブ活動といえば迷わず演劇クラブだったし、
委員会活動なら放送委員会だった。
小中学校では、お昼を放送室で過ごすことがよくあった。
給食時の放送にミニドラマやアナウンスでマイクに向かってしゃべるのである。
終了後には、誰にせかされることなく放送室でゆっくりと給食を食べた。


国語や英語の時間には、音読で当てられるとぞくぞくした。
解釈をしていようといまいと、すらすらとよどみなく読むことに命を賭けた。
英語なんか意味なんてほとんどわかっていないくせに、
美しく聞こえることだけに神経を集中させた。


いま、朗読することがどんどん楽しくなっている。
とくに、ストーリーの部分にはセリフが混じるので、思わず感情移入する。


そもそも、「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」のストーリー部分は
私自身の実体験にもとづくものがかなりを占めているのだ。
(もちろん、ずいぶんアレンジはしているけれど)
だから、体験した時の気持ちがふいによみがえって、セリフに気持ちが入る。


次の次に配信する予定の「私を正当に評価してよ」なんて、
その時の私の心のままにことばが口を突いて出た、という感じ。


私もこんなふうに楽しんで読んでいますので、どうぞ聴いてください。
また、すでに聴いてくださってる方々、ありがとうございます。
リスナー数が日に日に増えているのが何よりの励みです。




★朗読「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」、更新しました。

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2008-02-21

名前、呼び方、呼ばれ方

角田光代さんのエッセイを読んでいたら、
「親がくれる多くのものの中で、名前はもっともすばらしい贈り物だと最近思っている。」
という文章があった。
「一つの名に、一つの世界がある」と。


そうだと思う。
それぞれの名前の誕生に、それぞれのドラマがあって、それぞれの世界がある。


私の名前は、親しみをこめて「あっちゃん」と呼んでもらえるようにと
名づけられたという。
母からそんな話を聞かされていたので、息子の名前をつけるときにも
愛称で呼ばれたときに音の響きがいいことは欠かせない条件だった。
字画の本を贈られたが、それを開くことは一度もなかった。


彼の名前は実にカッコイイ、と私は思っている。
男の子の友だちが呼び捨てにしてくれたらなおのことカッコイイだろうな、と
彼がちいさい頃にはずいぶん憧れた。
ところが、小中学校での彼の呼ばれ方は苗字にクンづけ。
なんとも拍子抜けした。


高校入学後、本人が名前で呼んでくれとアピールしたのも功を奏し、
憧れの名前呼び捨てがやっと定着した。


名前の呼び方・呼ばれ方には不思議な力がある。
呼ばれ方によって本人のたたずまいまで変わってくるのだから。
また、どう呼ぶかによって呼ぶほうと呼ばれるほうとの関係性も変わってくる。


30代のはじめ、何の前置きもなく「あっちゃん」と呼ばれたことがあった。
出会いは仕事がらみだったが、とてもウマが合う人だった。
いまとなってはもう思い出せないが、
最初はたぶんおたがいにさんづけで呼び合っていたはずだ。
でも、すでに友だちだと思っていたので
「あっちゃん」と呼ばれることに違和感はなかった。
そう呼ばれることでおたがいの距離はぐっと縮まり、友情も深まる感じがした。


ただ、相手が私よりすこし年下の男性だったということで、
周りがちょっとどぎまぎしていたのはおかしかった。
「え? いつから彼は彼女を『あっちゃん』なんて呼ぶようになったの?」と。


要するに、そう呼ぶ・呼ばれることは、友情の証、ということにほかならなかったのだが。


新しい人と出会うとき、その人をなんて呼ぼう、といつも思う。
私自身、苗字で呼ばれるよりは名前で呼ばれるほうが好きなので、
親しみをこめて名前で呼ぶようにすることが多い。


その呼び方が自然に、もしくは何かの拍子に
より親しみを増したものに変化することがある。
そう呼んだだけで相手に対する心の持ちようが変わる。
その変化は意外なほどに劇的で、だからすごくおもしろい。


それぞれの名前にそれぞれの世界があり、
またどう呼んだり呼ばれたりするかによって
さまざまな相手との間にそれぞれの関係性がある。


名前のもつ力は大きい。

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2008-02-16

朗読プロジェクト

PCに録音ソフトをインストールし、
買ってきたばかりのSONYのマイクをセットした。
これで準備完了。
朗読プロジェクト開始。


まずは試しの録音から。
と思ったら、マイクにスタンドがないので台に乗せないと遠すぎる。
デスク左脇の本棚から厚めの本を抜き取って重ね、7冊で落ち着いた。
OK。


すでに何度か練習してみた「まえがき」を読んでみる。
録音スタート。
1ページだけ読んでストップ。
再生。


ありゃ。
すらすら読んでみたら、速すぎる感じ。
これじゃ朗読というより、ふつうにしゃべってるみたい。
なんかちがう。


じゃ今度はゆっくりで。
ふたたび録音。停止。再生。


あれ。
私の声ってこんなに鼻にかかってたっけ。
それに抑揚をつけすぎるとちょっとうるさい。


もっとゆっくり、もっと落ち着いて、もっと淡々と。
もう一度。


ああ。
これくらいゆっくりでちょうどいいかも。
自分で読んでて異常にまだるっこしく感じたけれど、
音だけで聞くときにはゆっくりはっきりのほうが聞きやすい。


講演や研修では、内容は準備してあっても
会場や参加者の雰囲気で自然と話し方は変わっていく。
なにより、そこに生じた化学反応によって感情ののり方もその時々で違う。


だけど、聞き手が見えないところでの朗読は
抑制と発散のバランスが大事だと感じた。
慣れてないからそのさじ加減がむずかしそうだけど、
回を重ねたらなにかつかめそう。


こういうのって、結局「何度もやる」のがいちばんなんだと思う。
中一で踊ったシンデレラのパートナーに、公演後「稽古は質より量!」とサインされ、
生意気な少女は「質だって大事でしょう」と内心思ったけれど、
確かに何度も何度も数を重ねることでしか体得できないことは多い、と
いまさらながら思う。


息子のタップの先輩がパリで絵を描いているが、
彼も「10年休まず続けたら誰でも一人前になれる」ということばを胸に
毎日ブログに絵をアップしている。


作家の石田衣良さんも、最近のインタビューで
「この仕事はある程度量産しないと上達しない」といっていた。


回を重ねてみましょう、朗読も。
近いうちに音声配信するつもりなので、お楽しみに。

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2008-02-15

本に命を吹き込む

ある20代の女性は
「社会に出たばかりの私の不安がそっくり書かれていたんです」
といった。


さる30代の女性は
「すぐ不安になっちゃう私にとてもしっくりきました」
といった。


またある40代の女性は
「何かと変化の多い私たちの年代にぴったりの本でした」
といった。


私が書いた本を、読んだ人それぞれが自分に重ね合わせ、
本に命を吹き込む。
本は、書いた私の手を離れ、ページを開いた人の手元で新しく生き直す。


このごろ、「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」の感想を伺うたびに
そんなことを思った。
どの方もありがとう、といってくださるけれど、
お礼をいうのはこちらのほうだ。


本を書くことも出すことも、私にとってけっして簡単なことではなかったが、
書いて出しただけでは本の存在意義はない。
読んでくれる人がいなければ、たんなる紙のかたまりだ。
それが心に響くかどうかは別として、
本はページをめくって読んでいただいてはじめて本として成り立つのだ。


だから、手にとってもらえただけでもありがたいのに、
私の書いたことばが読んだ方の心に響いたと聞くと
ほんとうに書いてよかった、とあったかな思いで満たされるのだ。


ところで。
いま、自分の本にあらためて命を吹き込んでみようと思っている。
朗読というかたちで。


声に出して読んだ時に、流れるように歌うように読めるかどうかが
私が文章を書くときに大事にしていることだ。
(それを確認するために、書きながら何度もアタマから読み直すので
書くのに時間がかかるんだけど)


流れるように、歌うように読めるよう書いたつもりの文章を
実際に流れるように、歌うように朗読できるかやってみたいと思う。
(子どもの時から朗読って好きだったし)


どうぞ、乞うご期待。

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2008-02-07

変な人

私の本「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」と
『聞き方』ひとつで人は育ち・人は動く」(こちらは共著)の編集者、
あまろ~ねさんのブログ「未公認なんですぅ」にコメントした。


彼はいう。
どちらかというと「変な人」らしい自分とかかわりのある人は
やっぱり「変な人」が多いようだ、と。


んー、それはいえてるかもしれない。
(といっても、彼にかかわりのある人を知っているわけではないんだけれど)


そこでコメント。


確かにアナタは「変な人」。
そんなあまろ~ねさんに本を作ってもらった私もやっぱり「変な人」なんでしょうねぇ。


翌朝ブログを拝見すると、お返事のコメントが掲載されていた。
私についてのありがたくも素敵なフィードバックだった。


いわく、「A.I.さんはまっとうな人だと思います。」
おおっ。


「むしろ、すごくまっとう。」
お…


「いまどきめずらしいくらいにまっとう。」



「そういう意味では『変な人』なのかもしれません。」


大爆笑。
笑いすぎて声も出ない。
思いがけなく朝の腹筋運動。


ありがとうございます、あまろ~ねさん。
ひとしきり笑ったら、内側からエネルギーが上がってくる感じがした。
なんだかとってもいい得て妙。
いわれてみればそうかもなあ、と思った。


息子からはしょっちゅう「変人」扱いされてる私。
「どこが?」と思うけど、
ものの捉え方や考え方がどちらかといえば少数派に属することが多いからだろう。
(「いやっ、そういうことじゃないっ!」と反論されそうだが、その話はいずれまた別の機会に)


TAP BOYSのメンバーをはじめ、
息子の友人たちも最初の頃は「変わった人」と思っていたかもしれない。
たぶん彼らは「お母さんらしくない人」と感じていただろうと思う。
ただし、順応性の高い彼らはすぐに慣れてしまったけど。


「~らしさ」といったステレオタイプなイメージに自分を当てはめたくない、
と思っていることは確かだ。
それが、いわゆる世間一般の型から外れていたとしても、
自分らしくものを考えたいし、自分らしく信念を貫きたい。


自分はほかの誰でもない、自分自身でありたいと思う。
まっとうすぎるかな。
それが私の願い。

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2008-02-05

表現者の性(さが)

石田衣良さんのショートストーリー集「てのひらの迷路」を読んでいる。


そのなかに、「ひとりぼっちの世界」という掌編がある。
そこに書かれている、一緒に暮らしていた女性との突然の別れは
衣良さんの実体験だとある。


ストーリーの前に作者のつぶやきが綴られている。
衣良さんはいう。
「こんな悲しい目にあったのだから、いつかこの題材をつかってなにか書こうと、
その夜も思っていた」と。
自分は「根っから作者なのだろう」と。
その時の衣良さんはまだ小説を書いていなかったのだけど。


なんとなくわかる気がする。
表現するものの性なんだろうなあ、と思う。


泣いている最中によく鏡をのぞきこんだ。
悲しみや苦しさにどっぷりつかっているのに、
そういうとき自分はどんな顔をして涙を流しているのだろう、と知りたくて。


たいてい鏡に映る涙にぬれた顔は
鼻やらまぶたやらが妙に赤く腫れあがって
とても見られたものじゃなかった。


テレビドラマで見る女優のきれいな泣き顔はうそだな、と思った。


まだ小説を一篇も書いていなかった衣良さんが
いつかこのことを書こう、とつぶさに感情や状況を見つめていたのと同じように、
「泣く」ってこういうことなんだ、と醒めたもうひとりの自分が眺めている感じだった。
それをもとに演技するチャンスなんかないんだけど。


こうしてみると、表現とは結局自分のなかにどれだけ引き出しがあるか、
ということなんだろうと思う。


12歳の時にシンデレラを踊った。
12歳なりに母のいない寂しさや、継母につらく当たられるつらさや、
王子と出会ったときのときめきを演じたつもりだった。
だけど、天才子役でもない12歳に引き出しは12年分しかなかった。
せいいっぱい想像力を働かせて王子さまを見つめたものの、
正直よくわからなかった。


あらゆる感情のあらしをくぐりぬけてきたいまなら
もっと緻密に表現できるんだろうなあと思うし、
プロコフィエフの音楽を聴いていると感情がわきあがってくる。


もっとも、そんなチャンスもないうえに、
いまの私がシンデレラとはシャレにもならないだろうけどね。

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2008-02-03

コックピット

雪模様のいちにち。


出かける予定がなかったことに安堵しながら窓の外を眺める。
窓ガラスはすっかり結露していて、
びっしりはりついた水滴のすきまから降りしきる粉雪が見える。
それにしても、今日はよく降るなあ。


ということで、一日デスクに向かう。
コックピットみたいな狭い仕事部屋にこもりきり。


コックピットは落ち着く。
狭いところって妙に安らぐものだ。
子どもの頃、時々真っ暗な押入れにこもるのが好きだった。
それが高じて、店長時代にはドラえもんみたいに押入れで寝起きしたことさえある。
当時は不規則な勤務体制だったので、押入れは音を遮断してよく眠れた。


さて、コックピット。
落ち着きはするものの、集中の度合いではほかの場所に負けるかもしれない。
たとえば、文章を書いたりする場合、新幹線の座席なんかのほうが集中度は高いと思う。


あれってどうしてだろう。
時間的にも空間的にも隔離された状態で切迫感があるからだろうか。
JR東日本に新幹線週末フリーきっぷみたいなのがあったけど、
たっぷり文章を書かなきゃいけない時にはそれにずーっと乗ってるといいかもね、
と息子と笑った。


ところで、コックピット。
アイデアを生み出すには不向きな場所だ。
狭いゆえ、じーっと考えていると逆に煮詰まってくる。


この間まで読んでた池谷裕二さんの「脳はなにかと言い訳する」にも書いてあった。


――アイデアが生まれるかどうかは、「ゆらげるか」、「ゆらげないか」だけの話です。
――アイデアは絞って出る性質のものではなく、
   アイデアが自然に生まれるのを待つしかありません。
――しかし、よく考えてみると、ゆらいでいるということは、集中力がないともいえます。


アイデアは、集中力が高くなく、脳がゆらいでいる時に出てくる、ということだそうだ。


そうだなあ。
それは実感としてある。


この間、新しい企画を考えようとうちから3分のスターバックスに出かけた。
窓際のカウンターに座り、ノートを広げた。
店内はかなりざわめいていた。
ななめ後ろのグループ(たぶん東大関係者の人たち)なんかは
アメリカ人と思しき年配の女性を中心に大声で英語を話しながらトランプに興じていた。


そんな中で、ゆらぐ、ゆらぐ、脳はゆらぎっぱなし。
ぼーっと外を眺め、カフェラテをすすっていると、じゃんじゃんアイデアが湧いてくる。
いいね、ここ。


雪がやんだら、コックピットを抜け出してスターバックスのカウンターに場所を移そう。

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2008-01-26

脳のゆらぎ

小学校1年生のことである。
入学から間もない頃だったと思うが、
私は時が一瞬止まったように思う経験をした。


教室中のざわめきを背中に感じながら私は座っていた。
子どもたちはみな出席番号順に席についていた。
出席番号1番の私は左隅のいちばん前の席。


いちばん前というのは圧迫感にも似た緊張を強いられるものだ。
なんだか自分だけ孤立しているような疎外感を覚えながら
私はつくねんと座っていた。


クラスの子はほとんどが知らない子ばかり。
ましていちばん前の隅っこに座っていては
どんな子がいるのか見回すこともできない。
心細さがつのるけど、私はじっとおとなしく座っていた。


でも、なぜだか私は振り向いた。
誰かが大きな声でもあげたのか、
寂しさに耐え切れなくなったからか覚えていないが、
とにかく私は右に首をねじって教室全体を見た。


そして、私の視線はひとりの男の子の上で止まった。
時も一瞬止まった。


その子のきれいな横顔から視線をはがすことができないまま、
私は胸がどきんと鳴るのを感じた。


――こんな子、いたっけ…?


はじめてのひとめぼれ体験。


のちに男の子とは親しく遊ぶようになった。
それでも一緒にいれば相変わらずどきどきし、
ほかの女の子を「可愛い」というのを聞けば悲しくなった。


こんなほほえましくも鮮烈な記憶がよみがえったのは
「脳はなにかと言い訳する」(祥伝社)という本を読んでいたから。
池谷裕二さんという素敵な脳科学者が書いたわかりやすくおもしろい本だ。
池谷さんの人柄が反映されているようなやさしい文章が読みやすい。


この本によれば、私たちの行動選択には絶対的な根拠などない、という。
自由意志、だとか選択、だとか、とことん突き詰めていくと
行動を決定する神経細胞のゆらぎが決めていたにすぎないのだ、と。


神経細胞には電気活動としてのゆらぎがあって、
細胞膜の電気がノイズとしてとくに理由なくゆらぐのだそうだ。


だから、人間の行動は根拠があるようで、基本的には深い根拠はない、という。
誰かを好きになったとして、その理由はひとつ。
「脳がゆらいだから」。


こんなふうに要約して書いてしまうと乱暴に聞こえるかもしれないが、
池谷さんの本を順を追って読んでいると「ほう」と納得できる。


6歳の私の時を止めたのも、きっと脳のゆらぎだったに違いない。

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2008-01-02

源氏物語千年紀

今年は源氏物語千年紀。
「源氏物語」が世に知られるようになって千年だという。


千年。


なんと遥かな…


悠久の時を経てなお読み継がれる「源氏物語」を
今年だからこそ読もうと思う。


きのうの日経新聞に特集記事があり、
作家・高樹のぶ子さんと歌人・小島ゆかりさんの対談や
瀬戸内寂聴さんのインタビューを興味深く読んだ。
去年読んだ「源氏物語がおもしろいほどわかる本」のおかげで
記事の中で語られる登場人物についてある程度わかったのはうれしかった。


「生き霊になるのがいるじゃん。こえ~」と息子がいう。
六条御息所ね。
私もキミぐらいの時、教科書で読んでおなじことを思った。


だけど、「源氏物語がおもしろいほどわかる本」を読んだ時、
はじめて六条御息所に共感できるような気がした。
心の奥底に秘めた哀しみの強さというか、
怨霊になってしまうほどの情念の深さというか、
わかるような気がしたのだ。


高樹さんと小島さんも六条御息所について熱く語っていて、
高樹さんは「彼女がいなかったらこの物語は面白くも何ともない」
とまでいっている。


これはやっぱりちゃんと読んで味わいたい。
「源氏物語がおもしろいほどわかる本」で
ざざーっと全体はおもしろくわかったので、今度は現代語訳で。
寂聴さんのを読んでみようと思う。


和歌を交わしあった千年の昔も、
メールや電話で手軽にことばのやりとりができる現代も、
習慣や価値観が変わりこそすれ人の心は変わらない。
そこがいちばん心惹かれるところだ。


どんな時代も、人は人を求め、想う。
時として心は移ろい、ままならないのもまたおなじこと。


遥かいにしえに思いを馳せながら、
時を経てなお変わらない人の心の不思議を感じたい。

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2007-12-23

マーゴット・フォンティーン

この頃、レッスンの中で先生の口から何度か
「フォンティーン」の名前が出てきた。


「『フォンティーン』のアラベスクみたいに」
「『白鳥(の湖)』の2幕で『フォンティーン』はこんなふうにして…」


マーゴット・フォンティーン。
イギリスが生んだ名バレリーナ。
存命ならば88歳だが、1991年に亡くなっている。


私がフォンティーンの舞台を観たのはいつだっけ、
と昔のプログラムを何冊かめくってみたら
実は観ていなかったことがわかり、愕然とした。


実際に観たような気になるくらい記憶が鮮明なのは、
大きな劇場でフォンティーン主演「ロミオとジュリエット」の映像を観たからかもしれない。
それと、テレビで放映したガラコンサートをリアルタイムで観たような気もする。


一度見たら忘れられない魅惑的な笑顔と、
独特のアラベスクをする人、という印象があった。
稽古場で「フォンティーン」といいながらアラベスクの真似をした記憶がある。


ただそれ以上に、当時の私には「年のいった人」というイメージが強かった。
たぶんガラコンサートのフォンティーンは60前後。
10代半ばの人生がまだ始まりかけたばかりの少女にとっては、
その芸術性よりも脚がどれだけ上がってどれだけ跳べるかのほうに
関心が向いても仕方なかったかもしれない。


そういえば、と書棚から古びた写真集を取り出した。
「フォンティーンとヌレエフ ―愛の名場面集―」。
確か20歳の誕生日に大叔父から贈られたものだ。


フォンティーンは引退がささやかれていた43歳に
ソ連から亡命したルドルフ・ヌレエフに出会い、バレリーナとして再起する。
ヌレエフは当時24歳。
その後、ふたりは長きにわたって
バレエ界において伝説的なパートナーシップを誇るのである。


何年ぶり、いやもっと長い時を経てひさしぶりに写真集を開いて息をのんだ。
フォンティーンの、なんとチャーミングなことか。
そして、19歳年下のヌレエフとなんと素敵に調和がとれていることか。


若い時には見えなかったものがいまは見える。
私は夢中になってページをめくり、文章を読み、写真を見つめた。


フォンティーンの気品ある美しさにあらためて敬意を表すると同時に、
勇気をもらったような気がした。

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2007-12-20

フロー体験

いま読んでいる本(「承認欲求」太田肇・著、東洋経済)に
「フロー体験」ということばが出てきた。


「私たちは何かに没頭しているとき、一種の快感を覚えることがある。
ミハイル・チクセントミハイはそれを『フロー体験』と呼んだ」とある。


さらに「とくに何か新しいものを想像したり、
人間の潜在能力をフルに発揮したりするのには、
この種の動機づけが大切だといわれている」と続く。


フロー体験、か。


たった数行で触れられているだけなので、
それ以上の詳しいことはチクセントミハイの著書でも読まないとわからないんだろうけど、
なんだか心惹かれることばに思えた。


それって、私にとっては「バレエを踊る」ということにほかならないんじゃないだろうか。


レッスンに打ち込んでいるときは、時間を忘れて集中している。
肉体も精神もひたすら自分の中にある1本の軸を求めつつ、
音と一体化しようとする。


自分がもっともピュアになっているひとときだと思う。


それはハードなトレーニングにストイックに取り組んでいるときとは明らかに違う。
スクワットもレッグプレスもダンベルもキライじゃないけど、
正直なところすごく好きってわけではない。
でも踊っているときは、どんなに呼吸が苦しくなっても、どこかが痛んでも、
やっぱり「快感」なのだ。


レッスンが終わったあとは、いい意味でからっぽ。
体中の水分を出し切るくらいに汗をかき、
それと一緒に内側の余計なものがすっかりなくなっている。


稽古場からの帰り道、からっぽのアタマに
「さ、がんばろう」という声が響く。


今日も踊れてよかった。
レッスンから帰ってきたら、
ふいに新しいことをひらめいてとてつもなくワクワクした。


これって、やっぱりフロー体験。

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2007-12-19

自分の強み

自分自身のことを自分はどの程度わかっているのだろう。


案外、自分が思う以上に認識してはいないのかもしれない、
と思ったりする。


自分の強みってなんだろう。
自分独自の資源って何があるんだろう。


あらためて自分を振り返り、自問自答する。
周りのフィードバックにも耳を傾ける。


新たな出会いからもたらされるフィードバックは新鮮だ。
自分にとっての「あたりまえ」が
決してそうではないのだと知らされることがある。
それが実は自分の気づかないほんとうの強みだったりもする。


先頃、佐藤義典氏の「実戦マーケティング戦略」と
「マーケティング戦略実行チェック99」(日本能率協会マネジメントセンター)
を読んだ。
「実行チェック99」のほうのあとがきに心に強く響く文章があった。


「個人の強みを活かすということは、
我々が天から与えられた資質をフル活用する、ということだ」


「本気で努力し、死ぬ気で自分の強みを磨き、
その努力が放つ光が、本当の個性」


私にも私ならではの強みがあるはず。
いや、あるのだと思う。


でも、それを活かすには本気で努力し、死ぬ気で磨く必要があるのだ。
ただもっているだけでは宝の持ち腐れになりかねないのだから。


自分が自分の人生の演出家であるために、
いましばらくじっくりと強み磨きに取り組むつもり。
一度きりの人生、自分らしくありたいから。

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2007-11-05

めずらしく長いお風呂で

基本的に、私は入浴時間が短い。
もしかしたら息子より短いかもしれない。
なんだか時間がもったいない気がして、ゆったりしてられないのだ。


だがしかし。
今日はそこをあえてゆっくりしてみた。
汗がでるまでぬるい湯船にじっくりつかってみた。


というのも。
先週のバレエのレッスン後に「き、きた…」と感じて以来、寒くて寒くて。
冷え症の、末端とか腰が冷たくなる感じとは違う。
体幹がすーすーする感じとでもいったらいいか。


カーディガンやらフリースのひざかけやらウールのレッグウォーマーやら
総動員で保温し、温かいお茶を飲むものの追いつかない。
(「だったら、体脂肪増やせっ」と息子はいう)
で、もうお風呂で温まるしかないな、ということになったのだ。
(息子の助言は半ば無視)


湯船でただじーっとしているのも手持ち無沙汰かと
ここはやっぱりiPodの出番。
防水スピーカーにセットし、お湯に浮かべながら映像を観ていた。


TAP BOYS、すごいなあ…


緞帳が上がった途端に湧き起こった拍手。
飛びかう歓声。
あの熱い日が鮮やかによみがえる。


iPodの小さな画面で観ていても、彼らはほんとにカッコいい。


それにしても。
よく振り付けたなあ、私。
彼らがカッコよく踊ってるもんだから、自分が振り付けたのを忘れるところだった。
これだけの振りが私の中から出てきた、ってことにわれながら感動。


あのときはほんと、夢中だったもんなあ。
何度も何度も音を聴いて、絵が浮かんでくるのを待って、動いてみて、
試行錯誤でまた動いて、また音聴いて。
ちゃんとイメージをカタチにできるかな、振り付けられるかな、と
立ち止まることも多かったけど、絶対振り付ける、とは思っていた。


本もそうだなあ。
時々自分で書いた本(「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」)を読み返すけど、
よく書いたなあ、とつくづく思う。
書いてるときもしょっちゅう立ち止まっていたけど、絶対書く、とは思っていた。


でも、そういうのって苦労ではないのだ。
自分のやりたいことだから。


TAP BOYSに感動しながらお風呂から上がると、
すっかり温まってカラダがラクになっていた。

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2007-10-21

古典の普遍性

息子が明日からの中間試験を前に熱心に古文を勉強している。
題材は何だろう、とのぞきこむと、「源氏物語」だ。


そういえば、1週間ほど前の日経新聞朝刊に「源氏」の記事が載っていた。
古新聞から探し出し、息子に見せる。


来年2008年は「源氏物語」の名が「紫式部日記」に記された年から
ちょうど1000年に当たるのだという。
その千年紀を前に、源氏の研究がますます深まりそうだという記事だった。


記事には、2001年に「源氏」を英訳したロイヤル・タイラー教授の嘆きのことばが
引用されていた。
偉大な世界文学が「今は『もののけとプレイボーイの物語』というステレオタイプに
成り下がった」と。


たしかに。
というか、私自身そう思っていた。


はずかしいことに、ついこの間まで私は「源氏」のことをよく知らなかった。
高校時代、古文の教科書には出てきたけれど、
学校で断片的に勉強するのみで通して読んだこともないし、
潔癖なティーンエイジャーの女の子としては
「プレイボーイの物語」についてそれ以上知りたいとは思わなかった。


だけど、2月頃ふと思い立って「源氏物語がおもしろいほどわかる本」を読んでから
認識ががらりと変わった。


なるほど。
まず時代背景や価値観がいまとはまるで違うということを念頭に置けば
納得できることの連続。
そうかそうか。


それよりなにより胸を打ったのは、人の心の普遍性。
人が人を想う気持ち、心の揺らぎ、悩みわずらう思いは
1000年の昔もいまも何も変わってはいない。


ちょうど同じことをこの間「ヴェニスの商人」を観た時にも感じた。
400年前のイギリスでも人の心は同じなんだなあ、と。


だからこそ、「源氏物語」にしろシェイクスピアにしろ
長く長く読み継がれ、語り継がれているのだと、あらためて実感した。
そこに思い至ることができたのは、それなりに年を重ねたおかげかもしれない。


そういえば、去年の夏に夏目漱石の「こころ」を読んだ時、
むかし、現代国語の授業で抱いた違和感はなかった。
高校生の時には不可解で気味悪いとすら思った登場人物たちの心情が
いまの私にはわかる気がした。
そうしてみると、年を重ねるのって悪くない、と思った。


さて、千年紀を機に「源氏物語」をちゃんと読んでみたくなってきた。
さすがに原文じゃ厳しいから、現代語訳で。


ああ、その前に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」も読みたいんだった。
文庫本はすでに手元に用意してあるのだ。
はじめて読んだ時の熱い思いをまた味わいたくて。


秋は日に日に深まり。
まさに読書の秋。

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2007-10-07

アリス

真帆さんのミニ個展に行ってきた。


水野真帆さん
私の「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」に
とっても素敵な挿絵を描いてくださったイラストレーター・立体作家。


私の本の挿絵はみんな「不思議の国のアリス」だ。
不安な思いに背中を丸めるアリスだったり、
鏡に向かって涙をこぼすアリスだったり、
イライラして当り散らしているアリスだったり、
ページをめくるとストーリーの主人公たちと同じ思いを抱えたアリスが現れる。


私にとって「真帆さん=アリス」というイメージ。
今回のミニ個展は「童話の国の雑貨展」と題して
アリスと「星の王子さま」がテーマだというので、
どんなアリスに出会えるかと楽しみにして出かけた。


所狭しと個性的な雑貨が置かれた不思議な雰囲気のお店の一角に、
真帆さんワールドはあった。


繊細なミニチュアボトルや、
温かみの伝わる豆本や、
アリスのおしゃべりが聞こえてきそうなキュートなイラストや、
作品のひとつひとつを見ていると
彼女の顔や文章が思い浮かんで自然と顔がほころんだ。


使うのがもったいないなーと思いつつ、
アリスのメモ帳2種類とポストカード数枚を買った。
レジではわざわざ本を出して「私の本に挿絵を描いてくださったんですよ」
と話した私(ちょっと誇らしげ)。


「そうですか」とお店の方がほほ笑んだ。
「描き方のバリエーションが広い作家さんですよね」


真帆さんに「行ってきました」とメールをするとほどなくお返事。
彼女によれば、私の本は「アリスを描かせていただいた最初で最後のお仕事」とあった。
外からの依頼によるアリスは私の本だけってことだなんて、知らなかった。
すごく光栄。
(依頼してくれた編集のイワサキさん、ありがとう!)


★「童話の国の雑貨展」は10月16日までイリアスで。
★水野真帆さんのHPはこちら
★ほんわりしたブログはこちら
 

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2007-10-03

取り戻したことば

8年前、現在の仕事をするための勉強を始めたときのことだ。
私はある事実に愕然とした。


ことばが思うように出てこないのだ。
自分の思いや考えがなかなかことばに変換されない。
これは一種の失語症状態だと思った。


かつて知っていたはずのことばが浮かばない。
自分の中のもやもやした塊を実体あるものにすべく
それをいい表すことばを必死で探すものの、
ことばたちは手から砂がこぼれ落ちるように逃げていく。


まいった。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
あんなに自在に操っていたはずのことばたちはいったいどこへ消えたのだ。


こんなにも簡単にことばを失うとは夢にも思わなかった。
ことばは使う必要に迫られなければ
どこかの引き出しの奥深いところにしまわれて
なかなか取り出すことができなくなってしまうのだと思い知らされた。


社会とのかかわりが極端に少なくなっていた時期、
「あれよ、あれ」「それ、それ」で日常会話は済んでいた。
その間に使用する語彙は激減していたのだろう。


(このことは、「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」にも書いた。
冒頭のストーリーの「アサコ」はまさに8年前の私の姿だ)


日本語でさえそうなんだから、
使わない外国語がすぐにさびついちゃうのは当然といえば当然だと思う。


それはさておき。
このところ、やっとことばが戻ってきた手応えを感じている。
ようやくことばに対して自信がもてるようになってきたと思う。
話しことばも、書きことばも。


正直苦しかった。
ことばが思うように出てこない自分は情けなくてかっこわるかった。


でも、トレーニングするしかないよね。
そう自分にいい聞かせてきた。


やっぱり続けることなんだなぁ、なんでも。
手応えはある日突然ぐぐっと訪れたりするのだ。

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2007-09-21

うれしい知らせ

うちには電話が3本引いてある。


1本は自宅兼FAXで、呼び出し音は「森のくまさん」。
(ただし登録済みの番号だけ)
2本目は私の仕事専用。無機質・無愛想な呼び出し音のみ。
そして3本目は事務所用で、「カノン」のメロディーが鳴る。
(一応パッヘルベルなのかな。けたたましいからよくわからない)


電話が鳴ると、自室から猛ダッシュ。
距離としてはたいして離れていないんだけど、
自室と廊下のドアの開閉にもたもたしていると
留守番電話に切り替わってしまう。
呼び出し回数を増やしてお待たせするのも申し訳ないし、
とにかくダッシュ。


夕方前、「カノン」が鳴った。
猛ダッシュして受話器を引っつかみ涼しげな声で電話に出ると、
「商業界」さんからだった。


研修の件かなぁ、と思ったら本のことだという。
実例に学ぶ 店長のための 現場を活かすコーチング」。
4年前に夫との共著で商業界から出している。
用件は、この本を増刷するということだった。


おお。
5刷だって。
やった。


手直しがあれば10月5日までに、とのこと。
実はちょっと手を入れたいと思っていたので好都合。
あらためて読み直してチェックしましょう。


この本はテキストで使用されることも多く、増刷を重ねている。
本は手にとっていただき、読んでいただいてはじめて存在意義がある。
ひとりでも多くの人に読んでもらって、何らかのお役に立てれば
書いた甲斐があるというもの。


私ひとりで書いた「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」は
「元気になりました」という声が多く寄せられる本だ。
また、そういってくださる方は折につけ繰り返し読んでらっしゃるという。


この間、思いがけなくTAP BOYS本番に駆けつけてくださった方は
本の感想をお手紙にしたためていらした。
2年ぶりの再会もTAP BOYSを観に来てくださったこともうれしかったが、
同じくらい本の感想はありがたかった。


私の知らないところで、私の本が誰かの役に立っている。
その事実を知るたびに、私の心にぽっとちいさな灯がともる。


ひとりでも多くの手元に、私の本が届きますように。

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2007-09-04

考える、悩む、もの想う

ロジカルシンキングの本を読んでいる。
要するに、どうすれば論理的な思考力を伸ばせるか、という本。


一般に、理系の人は文系よりも論理的、といわれるけれど
一概にそうとばかりもいえないんじゃないの、と個人的には思っている。
数学から見放された超文系人間でも、
素晴らしく論理的な文章を書く人間はたくさんいるわけだし。


ところで、本の中に「『考える』ことと『悩む』こととは似て非なる」とあった。
「考える」ことは、ゴールに向かって前に進んでいくことを伴うが、
「悩む」ということは、目的もゴールもはっきりしなくて止まったり後退したりする。
だから、論理的思考の前提として「悩む」んじゃなく「考える」ことが必要だよ、と。


なるほど。
この定義からすると、「悩む」は「心配する」に似ている気がする。
広辞苑を引くと、「悩む」にも「心配」にも「思いわずらう」という意味が出てくるから
ニュアンスとしてはやっぱり近いのかも。


親しいうちでは「心配しない」ことで有名な私。
家族が病気で伏せっていても粛々と看病し、淡々と接するので、
「もうすこし心配そうにしてよ」とお願いされるほど。


ただし、原因不明で息子の高熱が続いた時にはさすがに心配そうにしていたらしく、
ふだんの病気とは違う様子にむしろ息子のほうが心配になったという。
「オレ、そんなに悪いの?」と。
(だって、出てくる症状が白血病に似ていたのだ。
結局検査でも原因のウィルスは特定されなかった。
しかし、医師が「白血病ではありませんよ」ときっぱり否定してくれてほっとした)


原因がわからないということは、対処法がわからないということ。
そういうのはやっぱり不安になる。
でも、逆の場合はどんなに症状が重くてもきちんと対処していれば良くなるということ。
だから心配しないのだ。


そう考えると、あんまりあれこれ悩まないほうなんだろうか、私は。


ただ、むかしから(そう、少女時代から)、もの想うことは多かった。
20年近く前にやった「適性能力診断テスト」の結果にもそう書かれている。


――【将来の可能性を直感するロマンチスト】
アナログ的判断というより感覚的な発想で、物事の可能性に重点をおいて、
ものを見ようとする、『右脳』派。
想像力、直観、感性、インスピレーション、想像性のベクトルを向けている
イメージ重視型のロマンチストです。
理屈より自分のイマジネーション、ひらめきを大切にし、独自のやり方を好みます。


いい得て妙。


「行動する夏」から「もの想う秋」に季節は移ろいつつあり、
論理的思考とロマンチストと両立していくつもり。

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2007-07-20

「竜馬がゆく」

「日経WOMAN」8月号が読者を対象に行ったアンケート結果が
今日の日経MJに載っていた。


「自分史上最高のバイブル本は『1位赤毛のアン、2位竜馬がゆく』」
だって。


ほう。


それを読んで思い出した。
どちらも私は息子がおなかの中にいた時に読んだことを。
特に「赤毛のアン」のほうは遠い記憶になりかけていたけど。


いまとなっては信じられないような話だが、
(殊に息子が聞いたらびっくりするかもしれない)
あの頃の私は内心不安で不安でたまらなかった。


自分がどんなふうになるのかまったく見当がつかず、
かといってそれをおもしろがる余裕も持ち合わせていなかった。
とにかくこわくてこわくて、出産本の類も臨月直前まで見なかったくらいだ。


その代わり、自分がやさしい気持ちになれるようなものを意識して手に取った。
その中のひとつが「赤毛のアン」シリーズだった。


一方で、「竜馬がゆく」は強く強く心に響いた本だった。
人間味あふれる竜馬にものすごく惹かれ、全8巻を一気に読んだ。
もともと夫の愛読書だったのだが、読んでよかったと夫に感謝した。


なにより竜馬は人としてチャーミングだった。
非業の死を遂げてしまうけれど、こんなふうに熱く生きたいものだ、と心底思った。
おなかの中の赤ん坊が大きくなったら、「竜馬がゆく」をきっとすすめよう、とも。


息子よ。
キミにとっていまこそ「竜馬がゆく」を読む時かもしれない。

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2007-07-14

ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団

「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」を観てきた。


息子は水曜に特別試写会で観ているので、すでに2度目。
観る前に詳しく語っては…、と試写会の感想も極力遠慮していたらしく、
劇場が明るくなるなり「どうだった?」と聞いてきた。


「いやあ、よかったよねぇ」と私。
「期待以上だったねぇ」と夫。
同感、同感。


特にクライマックスの戦闘シーンには、迫力に圧倒された。
このシーンは原作でも息詰まるほどの緊張感で読ませるところ。
その緊張感が見事に映像化されていて見応えがあった。
(息子にすれば、もうちょっとたっぷり見せてほしかったようだけど)


それと、アンブリッジ先生のイメルダ・ストーントンがそのものだった。
原作では女・がま親分みたいな風貌をイメージしていたので
ちょっとキュートかも?とは思ったけど、
「恋におちたシェイクスピア」の乳母でうまい人だとはわかっていた。
原作を読んでいる間中イライラさせられたアンブリッジのいやらしさを
巧みに演じていてさすがだった。


それにしても。
ハリーときたらなんと過酷な状況に置かれた15歳だろう。
ハリーの成長に合わせるかのようにその過酷さはどんどん増していく。


今日観た「不死鳥の騎士団」は第5巻だが、
去年第6巻を読んだ時には怒りすら覚えた。
原作者のローリングさんはいったい子どもたちに何を訴えたいのだろう、と。


彼女自身の、母を亡くした経験が作品に大きく反映されているのは聞いたことがある。
身近な大切な人の死が、その人自身に深く影響を及ぼすのだということも知っている。
そしてそのつらいことが、生きていればいつかは直面せざるを得ないということも。
実際に、人の命が理不尽に奪われていく状況に身を置く子どもはたくさんいるのだし。


だけど、現実がそうであるだけにせめて本の中では子どもたちに希望を持たせたい。
6巻までの流れだと、子どもたちは誰を信じればいいのかわからなくなってしまう。


…とぐだぐだいいながら、早く結末が知りたくもあるのよね。
ああ、ハリーの運命やいかに。
最後の最後でローリングさんに拍手を送ることができるのか。


21日の原書発売、どうしよう。

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2007-07-05

ハリーいよいよ

「ハリー・ポッター」の新作映画がもうすぐ公開される。


先行上映が来週末にあるので、
息子には時間や指定についてチェックしておいてよ、と頼まれていた。
でも、彼は先行上映を待たずして特別試写会で見られることになった。
TAP BOYSのメンバーにチケットが当たったので、二人で観に行くんだって。
ラッキーだね。


私たちにとってストーリーはわかっているので、
(といっても、細かいところはずいぶん忘れているが)
楽しみはどんなふうに映像化されているかということだ。


長い長い原作をせいぜい2、3時間の映像にするのだから、
さまざまな制約があって当然だし、原作と同じものになるはずもない。
ただ、それが原作のテイストを生かしたものであってほしい、とはいつも思う。


そう考えると、登場人物たちが原作のイメージとはずいぶん違ってきてるなあ。
ハリーは、演じるダニエルがどんどんたくましく成長している分、
原作のやせっぽっちのハリーからかけ離れちゃった。
ハーマイオニーって、ほんとはこんなに美人なんだっけ、とも思うし。


新しいキャストにいたっては、
「どうしてこの人がキャスティングされたの?」
と疑問に思うような人物もちらほらいて、ちょっとがっかりさせられる。


原作と映画は別物、と割り切っているつもりだけど、
やっぱり原作のイメージは大事にしてほしいねえ。


ところで、「ハリー・ポッター」最終巻が映画公開とほぼ時期を同じくして
いよいよ発売される。
「原作のテイスト」ということを重視すると、ここは原書で読みたいところ。
息子と同い年のハリーには思いいれもひとしおで、早く結末を知りたくもあるし。


でも、翻訳されてたって夢中で読んでも数日かかるのに、
私のつたない読解力ではどれだけかかるやら…
ひいひいいってるうちに翻訳が出ちゃうんじゃないかな。


原書を手にするかどうか、悩ましいところです。

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2007-07-04

彦四郎と私

この前映画で観た「憑神」の原作を読んだ。


先に読んでいた夫は「映画より原作のほうがおもしろかった」
といっていたし、帯には「抱腹絶倒にして感涙必至。」という文句。
映画がいまひとつだった分だけ、期待を込めて読んだ。


確かにおもしろかった。
映画では描ききれていなかった背景やら事情やら心情やらが物語に深みを与えて、
その分人物が生き生きしている。
時代小説独特の言い回しも小気味よかった。


だがしかし。


身につまされた。
どこが「抱腹絶倒」「感涙必至」なものか。
主人公の彦四郎に自分を重ね合わせて、いささか暗澹たる気分に陥った。


夫は彦四郎を私のような性格だといっていた。
映画を観た時にも思ったが、そのことばには異論あり、だった。
私ってこんな?
やだなあ、違うじゃない、全然。


だけど、読み進んでいくうちにだんだん「そうかもしれない」と思うようになり、
そのうち「そうだな」と思うようになった。


自分の中の基準を曲げない、愚直なまでの一本気。
時に他人からは「馬鹿を見る」と揶揄されかねない性質。


彦四郎の一本気に邪神たちは心を動かすのだけど。
周りの人間たちも心動かされるのだけど。


でもね…
浮かばれないよ、この結末。
そう思うと、ため息がこぼれた。


読み終えて数日たち、ふと思った。
結末には不服があるけど、じゃ、彦四郎はほかの道を選べたんだろうか。


選べない、いや、選ばないよね、きっと。
彦四郎は愚直なまでの一本気を自分で受け入れて、それを良しとした上で選んだのだ。
じゃ、アナタはどう?と自問する。


たぶん、私も彦四郎と一緒。
彦四郎と同じように自分の芯は曲げられない。


それもいいんじゃないのかな。
そういうところ案外嫌いじゃないし。それが私の性質ならば。


自分を受け入れたら、すっきりした。

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2007-06-26

融通がきかないひと

家族三人で映画を観てきた。
舞台は幕末、主人公は貧乏侍の「憑神」。


夫は浅田次郎の原作を読んでいた。
夫によれば、主人公はこの私みたいな性格だという。
おもしろいから読んでごらんよ、と本を渡されていたが、
2ページだけ読んでそれっきりになっていた。


映画は、可もなく不可もなく。
ものすごくおもしろいわけでも、非常に心にしみるわけでもなく、
ちょっと期待はずれ。
(佐々木蔵之介のうまさは光っていた)


夫いわく「原作のほうがずっとおもしろかったなあ」。
じゃ、私も原作読んでみましょ。
夫のいう“私みたいな性格”も、
原作のほうがより鮮明に浮かび上がってくるのだろう。
映画ではいまひとつぴんとこなかった。


さしずめ、「無器用で融通がきかない」といったあたりなんだろうけど。
(映画の中で主人公は「融通がきかない」といわれていた)


どうせ、どうせ、私は融通がきかないですよ、とひがみながらも、
ドラマや映画では
【融通がきかない】→【でも心に熱い信念をもってまっすぐ進んでいく】
なんて登場人物にはむかしから心惹かれる。
(【融通がきかない】→【要するに頑迷で偏屈】または【のろま】っていうのはいやだけど)


NHKの朝のドラマ「どんど晴れ」のヒロインもそう。
実は、最近彼女を見るのが毎日楽しみでならないのだ。


朝のドラマなんてもう何年もまともに見てなかったし、
今回のドラマだって全然見るつもりはなかったんだけど、
たまたまちらっとだけ見ることが何度か重なるうちに何となく惹かれていった。


何がいい、ってヒロインのすっとしたたたずまいと、
まっすぐな素直さだ。
なんともすがすがしくて、見ていていい気分になる。


彼女も融通はきかないほうだけど、素直さは天下一品。
はったりかましたり、小手先の策を弄したりせず、いつも正攻法、直球。


こういう人がぐんぐん前に進んでいくのを見るのは
たとえドラマでも気持ちがいいのだ。


(ところで、今日の日記は1000件目です。ちょっとうれしい)

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2007-06-25

「ツレがうつになりまして。」

新聞広告に強烈に惹かれて買った。
うつになったご主人(ツレさん)と、それを支える奥さん(テンさん)の、
発症からほぼ克服までを描いたうつ闘病コミックである。


笑った。
ひーひー笑ってしまった。


だって、あまりにもよく似てて、あまりにも同じなんだもの。
私と。
(実際のところ、私はツレさんほどではなく軽いんだけれど)


そもそも買うきっかけになった広告のイラスト。
ツレさんがふとんにもぐりこんで泣いている。


しくしくしくしく。


そうそうそう、そうだね。
しくしくしくしく。
そんな感じ。


読んでいて、「そうそうそう、そんな感じ」の連続。
よくぞうまく表現してくれました。
まじめな解説書と違って、感覚的にすぽっとはまる感じ。
細川貂々さんのとぼけた絵が、重く深刻な場面さえもさらりと描いていて、
それでいて事態の本質をうまく伝えている。


とりわけ「よくぞいってくれました!」と思ったのは、次のくだりだ。


「うつ病… 私のイメージは 精神的に弱い人がなる 神経症のようなもの?
でも ツレは精神的に強いし 明るい」(byテンさん)


そうなのだ。
私の親しい友人でこのタイプの人たちはみな、芯が強くて、笑顔がよく似合う。
私にしても、「強い」といわれることはあっても、その逆はない。
ツレさんと同じように「ひとりミュージカル」をする「かなり可笑しな」(by息子)人間だ。


ただ、このタイプの友人たちはみなまじめである。
ツレさんも「バカ真面目でカンペキ主義」だそうだ。
私も、周りから「きまじめだ」とよくいわれる。


友人たちや私のように「きまじめできちょうめんで責任感が強い」というような
うつになりやすいタイプっていうのは確かにあるんだと思うけど、
でも、テンさんがはじめに抱いていたイメージのように思われると当事者としては心外だ。
本の中にも書かれてある。
「うつ病は誰でもなる可能性があります」。


世間ではうつが話題にされることが多くなったものの、
それでもちゃんと理解している人となると非常に少ないような気がする。


「うつ、って実のところなに?」という人にぜひこの本を読んでほしい。

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2007-06-18

鉄砲玉

以前、知り合って間もない女性から
面と向かって私の本の「読後感」を伝えられたことがあった。


「『この話、ネタに使えるな』と思うところがありました」


研修講師をぽつぽつと始めていた彼女は、あっけらかんとそういった。
実に無邪気に、率直に。


本をどう読み、どう感じるかは人それぞれで、
彼女がそう思ったのならそうなんだろうし、否定するつもりはない。
いった当の本人にも全く悪気はなさそうだった。


しかし、「あら、お役に立ててよかったわ」と手放しで喜ぶ気には
到底なれなかった。


「ネタに使える」。
使う。


そうか、要するに利用する道具なんだ。
本も、私との関係も。


ハウツー本ならまだしも、私の本
自分自身の心とじっくり向き合う作業を繰り返した結果できあがった本だ。
私の書いたエピソードを研修で話していただくのは一向に構わないけど、
「参考になりました」ならまだしも、
「使う」とか「使える」といった無造作なことばでくくられたことに私は不快感を覚えた。


配慮を欠いた無神経なことばはそのままその人をあらわす。
たとえ悪気はないにせよ、「使えます」ということばが出てきたところに
その人の有りようが透けて見えた気がした。
その人とはそれっきり疎遠になった。


失言の弁解に
「思ってもみなかったことばが口から勝手に飛び出した」
という人がいるが、そういうことはありえないだろう、と私は思っている。
自分の胸のうちに存在することに気がつかなかっただけであって、
潜在的にそう思っているからこそ感情にのってひょい、と口から飛び出すのだ。


「ことばは鉄砲玉」とはよくいったものだ。
一度口から飛び出したことばは、口に押し戻すことはできない。

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2007-06-13

私の本

きのう今日と暑かった東京だけど、
北海道の各地で30度を超えたというニュースには驚いた。


ゆうべ、北海道にいる友人に「どうだったの?」とメールした。
さっそく彼女から返事。高原なので暑さ知らずだったらしい。
彼女とはそのまましばらくチャットのようにケータイメールのやりとりをした。


やりとりの中で、彼女が私の書いた本のことに触れていた。
「あの本にどれだけ励まされたか」と。


私よりずっと若い彼女が、しばらく前まで心身ともにいまひとつだったということは
時々来るメールで知っていた。
彼女はいうのだ。その時に私の本を繰り返し読んでいたのだと。


私の書いた本が誰かの役に立ったとしたらこんなうれしいことはない。
不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」。
私が自分の経験を通して考えたこと、思ったことを
借り物でない私自身のことばでつづった本だ。
私が感じたのと同じような、なんとなくいやな感じや迷い、
ちょっとした不安のタネを抱えている人たちを励ますつもりで。


この本の中で私は22のショートストーリーを書いた。
ストーリーごとに数人の人物が登場するが、
そのうちの何人かには書いている私自身が投影されている。
もちろん、全部が全部私ではないし、
またたとえ私の分身であっても私の一部分でしかないけれど、
そこに私が息づいていることは確かだ。


ふだんとてもパワフルでも、ココロにもカラダにもふっと疲れを感じることってある。
そんな時に読んで、「とても励まされた」「勇気づけられた」
という感想をもってくださる方は多い。
先の友人のように、繰り返し読んだ、という方も。


http://www.ark-consulting.com/books_index.html の
「不安な気持ち・いやな気分がラクになる本」で、
中身の一部や、“顛末記”、寄せられたご感想が読めるので、
「読んでみたいな」という方はぜひ。


(時々自分で読んで、「この人いいこというじゃない」とうなずく私である)

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2007-05-09

裸の大将

最近は仙台に帰ってもちっとも行ってないけれど、
むかしはよく「とんかつ大町」に連れて行かれた。
仙台の老舗とんかつ屋さんだ。


とんかつ大町には山下清の色紙があって、
ぶたの絵とサインがしたためられていた。
(…はずだと思ったのでネットで検索してみたら、あった。
とても素朴なぶたと、几帳面な感じの署名。
お店のサイトじゃないので、リンクできないのが残念)


「山下清さん、よくここに来たらしいのよね」と母がいったとき、
山下清、ってほんとうに実在する人だったんだ…、
と不思議な感じがしたのを覚えている。


いまは亡き芦屋雁之助が
「裸の大将」としてテレビで山下清を演じ始めるのは昭和55年。
私は18歳になろうという頃だ。
(京都の舞台では昭和41年に演じているそうだが)


記憶の中では、もっと前から「山下清=芦屋雁之助」というイメージが
できあがっていたような気がするんだけど。
ただ、舞台を観ているはずもないし。
単なる記憶違いなんだろうなぁ。


このところ山下清に関心をもって本を読んでいた折も折、
「裸の大将」がドラマで復活するという話を聞いた。
ドランクドラゴンの塚地が清を演じるんだそうだ。


芦屋雁之助も、昭和33年に映画で清を演じた小林桂樹も、
清本人に会って役作りのために山下清そのものを研究している。
でも、塚地はきっと雁之助さんへのオマージュとして演じるんだろう。
「ビデオで勉強し直した」といってるし。


清本人は、他人が自分の特徴を誇張することに抵抗があったそうだ。
コンプレックスに思うどもりをことさらオーバーに演じられることも、
おもしろおかしく脚色されたウソの部分も、快く思わなかったという。


ただ演じる側も、本人のそうした思いを感じとりながら
「山下清」を演じていたのではないだろうか。
単なる憶測に過ぎないが、そう思いたい気がする。


すでに「裸の大将」は実在した山下清からひとり歩きしている。
そして、私もひとり歩きした「裸の大将」をずっと山下清として見てきた。
山下清の甥・山下浩氏の「家族が語る山下清」を読んでつくづくそう思い知らされた。


本人を知らない塚地の清は、山下清本人からは離れたものになるのかもしれない。
まあそれはそれとして、新「裸の大将」、けっこう楽しみにしている。

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2007-05-08

ヒーローのマント

子どもの頃、「黄金バット」が好きだった。
大人になってから紙芝居でも見たが、小さい時に見ていたのはアニメのほう。


私は黄金バットのマントを持っていて、
ふだんはタンスの奥に大事にしまってあった。
ガムか何かで当たったのだろうが、
私にとっては自分宛てにわざわざ郵送された特別なもの。
時々そっと出して身につけては、悦に入ったものだ。


黒いマントを翻す金色の骸骨。
そんな不気味なヒーローのどこにちいさな女の子は惹かれたのだろう。
いまとなっても謎だ。


さて。
唐突に黄金バットを思い出したのは、
新聞で「横浜アンパンマンこどもミュージアム」の記事を読んだからだ。
このGWの入場者だけで年間目標の4割を達成するほどのにぎわいだったという。
息子だって、10年ちょっと前だったら絶対に「行きたいっ!」とせがんだだろう。


それにしても、なぜ「アンパンマン」で「黄金バット」なのか。
私はアンパンマンの記事から息子のマント姿を思い出したのだった。


アンパンマンが大好きだった息子は、アンパンマンのヘルメットとマントを持っていた。
(ベルトもセットになってたかもしれない)
アンパンマンになりきっては、マンションのお隣りに届け物をしたりしていた。
お隣りのおばさんは「あら、アンパンマン」なんていってくれて、息子は得意満面。
おばさんとは何年後かにばったり会って、「アンパンマン、元気?」と聞かれたっけ。


とにかく、アンパンマンにはずいぶん長いことお世話になった。
アニメはもちろん欠かさず見たし、オリジナルの絵本だって何冊も買い求めては
息子ともども覚えてしまうほどに何度も読んだ。
いまだって、アンパンマンを見たらなつかしさで胸がいっぱいになってしまう。


アンパンマンって、日本の子どもが最初に出会うヒーローなんじゃないかな。


息子のアンパンマンのマント姿はほんとうに可愛らしくて、
いまも私の思い出の中で色褪せずにいる。
あどけない笑顔と一緒に。


息子はみんな大好きアンパンマンのマント。
で、私は自分の黄金バットのマントを思い出したのだ。
なんだかかなり趣きが違うけど。


黄金バットは「みんな大好き」だったんだろうか。

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2007-04-29

山下清と弟

おとといだったか、テレビの美術番組で山下清が取り上げられていた。
久々に彼の話を聞いていて、「この人、自閉症だよなぁ」と思った。


山下清はあまりにも有名な人で、
でも「自閉症の山下清」とは聞いたことがなくて、
それでも私は「この人、自閉症っぽいなぁ」と思っていた。


彼が放浪した先で見た数々の風景を
帰ってから記憶をもとに貼り絵にしたというのは有名な話だ。
その記憶力のすごさは、弟と一緒。


弟は絵は描かないけど、地図は一度見たら頭の中に入る。
想像するに、見たままを写真にしたような状態で
覚えているんじゃないかと思う。


今回テレビではじめて知ったエピソードは、
「決まった時間がきたら、貼り絵の作業はやめる」というものだった。
「時間を忘れて作業に没頭する」ようなイメージを持っていた番組出演者たちは
とても驚いていたが、私たち家族は妙に納得して笑ってしまった。
時間に忠実という点で弟と共通するから。


弟は何か次の動作(たとえばチャンネルを変えるとか物を手渡すとか)をする時に
自分で決めた時間にならないと動かないことがある。
じっと時計を見つめて、その時間が来るのを待つ。
周りのものは、彼の儀式をじっと待つ。


気短な父は時々せかすし、
小意地悪な姉(つまり私)はとぼけたふりしてチャンネルを変えようとしたりするけど、
それで彼の動作が早まるわけではない。
どのみち彼の決めた時間が来るまで待たなければならないことのほうが多い。


本棚から久しぶりに作品集「みんなの心に生きた山下清」を取り出してみた。
確か10年ほど前に旅先で偶然開催されていた「山下清展」で買い求めたものだ。


買った当時、私は貼り絵のページばかりを眺めていたようだ。
その証拠に山下清の研究家・式場俊三氏の文章に記憶がない。
あらためて読みはじめると、
山下清はやっぱり自閉症だったんだろうなぁ、という思いが強まる。


じっくり読みすすめてみよう。
それと、アマゾンで注文した「家族が語る山下清―夢見る清の独り言」が
届くのが楽しみだ。
家族だけが知る山下清として、
「驚異的な記憶力と超がつくほどの几帳面さ、オシャレで負けず嫌い」とあった。


私のよく知る誰かにそっくり。

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2007-04-24

たたずむおじさん

ビッグイシューの販売員さんが本郷三丁目の交差点に立つようになって
どれくらいになるだろうか。


最初に発見したのは夫だった。
以来、販売員さんが立っているのを見かけるたびに夫は
「見せ方を工夫するといいよ」だの「もっと声がけしたほうがいいよ」だのと
声をかけていたようだ。


ある時、販売員さんと夫とのやりとりに目をとめた通行人のおばさんが
不思議そうに寄ってきたという。
「あら、これくれるの?」


「いえいえ、これは売り物です」と販売員のおじさんに代わって説明する夫。
ビッグイシューの何たるかをはじめて知ったおばさん、
「じゃ、買うわ」とお買い上げ。
「これから毎号買うわね」


ビッグイシューは、「ホームレスの仕事をつくり自立を応援する」雑誌だ。
ビッグイシュー日本版」によると、
「最初、販売者はこの雑誌10冊を無料で受けとり、その売り上げ2000円を元手に、
以後は90円で仕入れ、200円で販売し、110円を彼らの収入とします。」
という仕組みだ。


さて、本郷三丁目の販売員さん、時々静かにたたずんでいるのを見かけたが
そのうちぱったり姿を現さなくなった。
「どうしたんだろう」
「病気でもしたのかな、それともくじけちゃったんだろうか」
理由はわからないけど、販売員さんは消えてしまった。


最近になって、交差点に別の販売員さんが立っているのを夫が見つけた。
前の人はやめたらしい。
「事情は知らないんですけど」と新しい販売員さん。


今日、はじめてその販売員さんを交差点で見た。
ビッグイシューを掲げながら心もとなげに立っている。
お昼時でそれなりに人の往来はあるのに、おじさんは一言も発さない。


道行く人々はおじさんの存在になどちっとも気づかない。
信号待ちの人がどんどん増えていくのに、相変わらずおじさんは押し黙ったまま。
おじさんは人の波に圧倒されて萎縮しきっているように見えた。
おじさんが掲げるビッグイシューは、すでに夫が購入してうちにあった。


だめだ、見てられない。
私はおじさんに駆け寄った。
「こんにちは」
200円を差し出した。


おじさんの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」


すこし離れたところで待っていた夫によれば、
「周りの人たちがあれ?って感じで見てたよ」


知らない人が多いんだと思う。
おじさんはおじさんで、無視されるのがこわくて声がかけられないんだと思う。
はじめは勇気がいるよね。


重複したビッグイシューは、学校に持っていくように息子に渡した。
まだ知らない人に教えてね、と。

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2007-03-22

「日本一の『手みやげ』はどれだ!?」

BRUTUSの特別編集本「決定版 日本一の『手みやげ』はどれだ!?」を買った。
先週の土曜、美容院で思わず見入った本だ。
お菓子や軽食など24ジャンルにつきそれぞれ16品が紹介されている。


カラーリングが髪に浸透するのを待つ間、熱心にページをめくっていると
「それ、いいですよね」とゴトウさん。
「知ってるお店とか食べたことがあるのが出てると『でしょ、でしょ』って感じで」


そう、そう。
自分のお気に入りが載っていれば「やっぱり」と深くうなずき、
うわさの逸品を見れば「ぜひ一度は」とそそられ、
おいしそうだけどお高いものには買うわけでもないのに逡巡し、
見るからに自分が好きそうなものは「絶対買ってみよう」と心に決め、
とにかく見ているだけで楽しい。


実際、「そう、そう、そう」な品がいくつか載っていて、それだけでうれしくなった。
ひとつは、故郷・仙台銘菓「白松がモナカ」のひと口ゴマモナカ。
子どもの頃から大好物。
いまでも仙台から帰ってくるときによく買うし、東京でも見つければまず買う。
ゴマあんのこっくりした味がほどよくおいしい。


それから、隣町・湯島「井泉」のヒレかつサンド。
井泉は時々行くとんかつやさん。
この前TV「出没!アド街ック天国」で湯島特集をやっていた時にも
ここのヒレかつサンドが出てきた。
ヴィジュアルに訴えられると食べたくなるのよねぇ。
さっそく買ってきて家族揃ってほおばった。
久しぶりに食べたけど、やっぱりおいしかった。


あとは、「ウェスト」のリーフパイとか、「FIRE HOUSE」のアボカドバーガーとか、
みつばち」の小倉アイスとか、「ジャンヌトロワ」のジャンヌとか、
好物や知ってるお店にきゃーぴーいいながら見ていたんだけど、
とりわけうれしかったのは上野「みはし」のあんみつ。


「みはし」の社長・佐藤さんは尊敬する先輩だ。
正直で、あったかくて、人間味あふれる素敵な方で、私たち家族はみんな大好き。
その「みはし」のあんみつが紹介されていれば
「でしょ?やっぱり」とうれしくなっちゃうというものだ。


夫が上野に用があるというので、ついでを頼んでみはしに寄ってもらった。
買ってきてもらったのは豆かん。
あんみつはもちろんおいしいけど、私はシンプルな豆かんも大好き。
歯ごたえのある寒天と、ほっくりしたお豆と、コクのある黒蜜のトリオ。
やっぱりみはしはおいしい。


ふだんから食べることに特別執着するほうではないけれど、
おいしいものは人並みに好き。
今度は何を食べてみようか、とこの本は眺めるだけで心が浮き立つ。


…って、手みやげの本だったよね、これ。
ま、いいか。
まずは自分に手みやげ、ということで。

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2007-03-01

クレヨンしんちゃん

インターネットで注文していた本が届いた。
「クレヨンしんちゃんのまんが日本の歴史おもしろブック」。
【旧石器時代~鎌倉時代前期】と、【鎌倉時代後期~江戸時代】の2冊。


息子は受験の選択科目を日本史で受けるつもりでいる。
日本史は暗記オンリーなので私の出番はないけれど、
これを機に日本史の流れをざざっとつかんでおくのもいいかも、と思いついた。


で、まんがでおもしろそうなのないかなぁ、と検索してて見つけたのが
「しんちゃん」の本。


素敵でしょ、「しんちゃん」で日本史なんて。
どう考えてもお子ちゃま向けだろうけど、
私にとっても息子にとっても息抜きついでに読むにはぴったり。
だいたい、息子は「集中しすぎて脳がオーバーヒートした」といっては
ちゃっかり「しんちゃん」読んでるくらいだから。


私も息子に負けず劣らず「しんちゃん」が好き。
いままでどれだけ「しんちゃん」に癒されたかしれない。


気分が落ち込んでつらいときに
しんちゃんの映画で大笑いして元気を取り戻せたこともあったし、
疲れすぎて心が麻痺しそうになっているときも、
「しんちゃん」のコミックスを読んでくすくす笑うと
気持ちにすこし温かみが戻って落ち着いて眠れるのだった。


ただ、自分で善悪の区別ができない幼児に「クレヨンしんちゃん」は
ことば遣いや行動面で若干の悪影響を及ぼすかもしれない。
私だって息子がちいさかったときには眉をひそめて避けていたくらいだったから。


たしかに、「クレヨンしんちゃん」が上品だとはいい難い。
だけど、「しんちゃん」ではどんなにすったもんだごたごたあっても、
結局は「でもやっぱり家族っていいね」「ともだちっていいね」というところに落ち着く。
それも押しつけがましくなく、くさくなく。
そういうあったかい愛情にあふれているところが好きなのだ。


コミックスに関していうと、
そもそもある程度の年齢でこそ真に楽しめるまんがだと思う。
だって、スター・ウォーズやロード・オブ・ザ・リングの細かいネタなんて、
普通の子どもは知らないでしょ。
息子や私はそういうところで大喜びするわけだけど。


さて、届いた本をパラパラめくっていた息子、
「これ、全編まんがじゃないんだね。ちょっとがっかり」とぼそり。
それなりに解説文にページが割かれているものね。


まあまあ、そういわず。
しんちゃんの坂本龍馬、なかなかおもしろいよ。

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2007-02-18

短くエッセンスで

何かを伝えようとするとき、ことばを尽くせば尽くすほど
相手には伝わらないことがある。
式典のご挨拶や会社のエライ人のお話に多いけど、
私自身にもそんなときがあったかもしれない。


本人は伝えたいがためにどんどん饒舌になる。
説明の補足をし、名言を引用し、自身の体験談を交え、
ことばはますますヒートアップしていく。


わかるんだ、その気持ち。
伝えたい思いと、伝わっているかどうかわからない不安から
ことばを連ねたくなるの。


でも、聞いてる側の気持ちもわかる。
長いなー。くどいなー。
まだ終わらないのかなー。
結局何がいいたいのかなー。


つーーー。
そのうち聴覚スイッチはオフ。
自分の世界に入っちゃう。


むかし伝え方の勉強をした時、何度もいわれた。
「短く、エッセンスで」と。


凝縮したひとことをぽん、と投げかけたほうが
30分間ことばを尽くすより伝わることがある。


和歌がそうなんだよね。
まさに「短く、エッセンスで」の世界。
「源氏物語が面白いほどわかる本」を読み、和歌に触れるうち、
いまさらながらにそのことに思いが至った。


技巧やことばの美しさもさることながら、そこにこめられているのは思い。
思いが短い中に凝縮されているからこそインパクトは強い。


和歌ってこんなに趣深いものだったんだと実感。
またまた古典の世界をのぞいてみようと思っている。

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2007-02-11

勤勉な連休

三連休の中日。
「バブルへGO!!」を観に行こうかといってたのだが、
日経新聞の評価が星2つなのを見て途端にトーンダウン。
「DVDになってからでもいいか」ということに。


外は春めいて(って2月なのにヘンだけど)いい天気。
こんな時に出かけていくと人がいっぱいだろうね。
ま、うちで勉強してましょ。


息子は年間学習計画を立てて以来この2週間、
勉強に対する姿勢が以前よりずっと積極的になった。


取りかかりが遅かったりブレイクタイムが長すぎたりしたために
予定どおりに終わらないとか就寝時刻が遅くなるとかしているけど、
スタイルが確立するまでは何かと試行錯誤してあたりまえ。


いままでとやり方を一変させるうえに、
それを長期で継続させていかなければならないわけで、
すこしずつ負荷を上げていけばいいかなと思っている。
筋トレと同じ。


私は父親本の3冊目を読んだ。
80のシチュエーションについてそれぞれ4つの答えから最適を選んで
「父親力」を検定しようというもの。
なかなか興味深いシチュエーションぞろいだが、
それぞれの解説に関してはひざを打つほど納得するものもあれば
いまひとつしっくりこないものも。
全体的には面白かったけど、ちょっと細切れ過ぎの感も。


それよりなにより、その後に読み始めた「源氏物語が面白いほどわかる本」
がおもしろすぎ。
これ、ちょっとはまりそう。
この本を読んだら「受験で必要な古典常識が自然と頭に入る」
って前書きにあるが、そのとおりだと思う。
おもしろがってるうちに自然と覚えてる、って理想的じゃない。
そんな理屈を抜きにして「へぇ~」の連続でおもしろい。
息子にも絶対おすすめ。


ささ、早く先を読みましょ、っと。

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2007-02-10

父親本

ふと思い立って父親向けコミュニケーションの本を検索してみた。
(あくまで「父親」限定)


実は5年ほど前にそういうニーズがあるんじゃないかと思いついた。
でも、当時はまだ時期尚早だったみたいで。
ニーズはあったのかもしれないが、
世の中は父親たちがそんなことをおおっぴらにできる雰囲気にはまだなかった。


そうこうしているうちに、最近では
「父親も積極的に子どもに関わらなくちゃいかん!」的な雑誌を
あれこれ目にするようになった。
じゃ、そういう本も出ているかな、と。


調べてみると、案外すくなかった。
「教育論」「子育て論」的なものを除いてコミュニケーションに限定すると3冊。


いま3冊とも手元にあって、2冊を読み終えた。
3冊目は目次と前書きを読んだ段階で、これから読むところ。
どれも「お父さん」が書いていて、
当然のことながら「子どもにはお父さんのかかわりが大事なんだよ」
ということをいっている。


ただ、同じことを伝えていながらそこには書き手の人となりが如実に現れる。
ふとしたエピソードに書き手の隠れた価値観が露呈していたりする。
言葉の選び方や文章の温度にも書き手本人の特性がよく出ている。


今日読んだ「樋口裕一の子どものやる気を伸ばす父親のひと言」は
書き手に信頼感を持てた。
子どもに向き合う場合の価値観も共感できるものが多かったし、
第一、ニュートラルな伝え方ゆえに説得力を感じた。


樋口裕一氏はベストセラー「頭がいい人、悪い人の話し方」の著者。
私は常々、どんなに世間での評判が高くても
自分自身の目で確かめるまではどうとも判断しかねると思っているので、
この本も過大な期待を抱くことなく手にとった。
でも、いい本だった。


1冊目の本も基本的に伝えていることは同じ。
でも、ところどころに書き手の効率主義・権威主義が見え隠れし、
何度か辟易した。
また、価値観の押し付けがあるかと思えばきれいごとっぽかったりで、
共感を持てないまま読み終えた。


3冊目はお父さん力を検定しようという違った切り口の本。
読むのが楽しみ。

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2007-02-04

バイブル

きのう買ってきた本はよかった。
安河内哲也著「できる人の勉強法」。


買ったきっかけは新聞に載ってたでっかい広告。
「このやり方に変えたら、成績が上がった!」
「短時間で成果をあげる方法を初公開!」
と刺激的な宣伝文句が紙面で躍っていた。


ほんとかなぁ。
疑心暗鬼。
でも興味は大いに惹かれた。


本屋で手にとってみて、これはよさそうだと思った。
わかりやすいし、読みやすそうだし、具体的で、実践的。
うちに帰ってさっそく読み始める。ただし、音読で。


この本、もちろん息子の勉強に役立てたいと思って買った。
だとしたら、ふたりで一緒に読んじゃったほうが効率的だ。
同じ情報を同時に共有することで、今後の対策を立てるのも早くなる。
それに、同じ温度で思いも共有できるしね。


いますぐ勉強に役立つところ(だいたい7割くらい)を
私が音読する形で読んだ。
で、ふたりして大いにやる気になった。


音読しながら勉強しよう!
しつこく覚えよう!
今日からさっそく実践。


個人的には、「ネガティブと怠け者は伝染する(から避けるべし)」
「強烈な向上心を持つ人とつきあうべき」というところにすごく納得。
息子の周りにはいい仲間が揃っているから、その点は安心だね。


これからこの本をバイブルに勉強していこう、と息子と決意を新たにした。
いい本に出会えてほんとうによかった。

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2007-01-23

宣伝活動

ちいさい時に「Shall we ダンス?」で一目ぼれして以来、
ずーっと草刈民代さんのファンである息子は
たまに民代さんとメールのやりとりをしている。
(なんという役得。ちいさな男の子のファンなんて、彼くらいだったからね)
で今回、息子は民代さんから周防さんのアドレスを教えていただいた。


観て、胸に感じ入るものがあれば、直接ご本人に伝えたい。
息子も私も、さっそく「それでもボクはやってない」についての思いをしたため、
メールを送った。


息子にも私にも、すぐにていねいな返信が届いた。
生番組出演後の深夜。お疲れだったろうに、と恐縮した。


「一人でも多くの人に、この映画を見てもらいたい。
今はそれしかありません。」


周防さんはそう綴ってらした。


「仙台にもいらしてたわよ」と母がいうとおり、公開前には周防さん自ら
全国あちこちを宣伝に回ってらしたようだ。
また、アメリカでもプレミア試写会をしたかと思えば、
バラエティ番組に出演して素顔も披露し、
とにかく精力的に宣伝活動をしてらっしゃる。
25日からはイギリスで試写会をするために2泊で行ってくるんだとか。
それもみな、「一人でも多くの人に見てもらうため」だ。


そうだよね。
どんなに熱意を込めて作っても、どんなに素晴らしい作品でも、
見てもらわないことにはないのと同じ。


本だってそう。
手にとってもらわなければ、読んでもらえなければ、
本としての存在意義はない。


自分はどうだったかな。
自分の書いた本をひとりでも多くの人に読んでもらうために
手を尽くしたかな。


私も「ひとりでも多くの人に読んでもらいたい」という思いは強かった。
そのためにいいと思うことはやってみたつもり。


でも、いま思うと必死さが足りなかったかも、とすこし後悔している。
ひとりでも多くの人に読んでもらうためのアイデアを
もっともっとたくさん出して、やれることはやり尽くす!ぐらいに
やってもよかったな。


もし次に本を書いたら必ずそうする。

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2007-01-04

直木賞候補

今日からクラブメッド・サホロで冬のバカンス。
暗いうちに自宅を出、8:00前には家族三人機上の人となった。


5:00前に起きたのでさすがに眠く、「新聞読む?」と夫に差し出されても
目がしょぼしょぼしてとても読む気になれない。
夫はざっと読んだところだったらしいが、その後さらに丹念に読んでいるようだった。


夫がふたたび私に新聞を差し出した。
今度は赤ペンで線を引いた記事を指さして。
そこには、第136回芥川賞と直木賞の候補作が発表されていた。
なになに。


えぇ~っ!


池井戸さんの名前が!
それも「空飛ぶタイヤ」が直木賞にノミネートされてる!!


一気に眠気が覚めて大興奮。
自分が読んですごく好きな本が、それも知っている人の本が候補になるなんて
うれしいっ!


とかち帯広空港に到着し、サホロ行きのバスに乗り込むと
池井戸さんを紹介してくれた友人に携帯からメール。
ほどなく返信があり、池井戸さんのメールアドレスを教えてもらった。
携帯にアドレスを登録していなかったのだが、すぐにでもお祝いを伝えたかった。
興奮冷めやらぬまま、お祝いメールを送った。


しばらくして池井戸さんからもお返事メールがきた。
ああ、自分のことのようにうれしいっていうのはこういうことね。
受賞したらもっともっとうしれいよね、きっと。

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2006-12-02

「空飛ぶタイヤ」

2ヶ月前、友人の紹介で小説家の池井戸潤さんとお話をする機会があった。
その時にちょうど出版されたばかりのご本を頂戴した。


空飛ぶタイヤ」。
厚さ3cm、総ページ数489ページ、ずっしり重みのある“企業小説”。
実際にあった事件がモチーフになっている、とのこと。


先に読み始めたのは夫だったが、
500ページ近い本を彼が3日で読み終えたのには驚いた。
だって、家族の中では夫がいちばん読むのが遅いのだから。
部屋にこもって夢中で読んでいる姿からして、
かなりおもしろかったんだなと思った。


「いやぁ、涙が出てくる場面があってさぁ」
興奮さめやらない様子で夫がいう。
「ちょっとまって」と私はことばをさえぎった。
「いわないで。私もこれから読むんだから」


といいながら、あれやこれやでなかなか手がつかず
やっと表紙を開いたのはきのうのこと。


で、読み始めたらやめられない、とまらない。
運送会社の社長さんは? 巨大自動車会社のエリートは? 銀行は?
それぞれの思惑が錯綜する。
さあ、どうなる、どうなる。
あまりのおもしろさに先が気になってたまらない。


はっと気がついたら半分まで読み進んでいた。
こうなったら一気に読んじゃえ。
ふとんにもぐりこんだ後もむさぼるように読み続け、
結局読み終えてしまった。


すっごくおもしろかった。
500ページもの分量を読んでいながら、読後感はすっきり。
読んでよかった。


小説には愚直なまでにまっすぐで直球勝負しかできない
中小企業の社長が出てくる。
上手に立ち回ることなんかできなくて、でも長いものにも巻かれない。
馬鹿にされても、無視されても、彼はおのれの信ずる道を進んでいく。
ぼろぼろになって、くじけそうになりながら、信頼する人たちとともに。


いいんだよね、愚直でも。
人として守るべき信念を熱く強くもっていれば。


いや、ほんとうにおもしろかった。
おすすめの1冊。

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2006-11-10

偶然の集結

現代文(私のころは「現代国語」、略して現国)の授業で
今度少人数学習をすることになった、と息子。
テーマは夏目漱石の「こころ」。


「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」ですね。
夏休みの課題になってましたっけ。
ついでに私も読みました。


この年齢になればこそ
「先生」の心情も「K」という人物像もわかる気がするものの、
これを16、7の若者たちが読みとろうっていうのは
なかなかきついよなぁと思った。
正直、重いものね。


で、この実に重たい「こころ」を男子3名女子3名計6名のチームを組んで
考察・研究・発表をするんだそうだ。


ほう。
チーム編成の方法は?


「くじびき」


ふーん。
ま、おもしろそうだね。
高校生たちがあの「こころ」をどんなふうに読み解くのか興味あるな。


数日後。
「『こころ』のチームが決まった」と息子。


トランプの同じ数を引いたもの同士が組むことになったそうで
女の子3人は私も知っている子たち。
4のカードを引いた息子は、同じく4を引いた男の子を見てびっくり。
TAP BOYSのメンバー・Rくん。


「あれ、男の子はふたりなの?」
「ううん、もうひとりいるよ。誰か聞きたい?」
「もしかして、…Kくん?」
「そう」


まあ、くじびきだっていうのに見事にTAP BOYSが集結したとは。
なんたる偶然。


実はその日Kくんは欠席していたそうで、彼の分のカードは残っていたらしい。
それが息子とRくんと同じ班のカードだったのね。


「すごい!」「やっぱりTAP BOYSはつながってる!」とクラスメートたちも
あまりの偶然ぶりにどよめいていたそう。


TAP BOYSが考察する「こころ」か。
ますます興味ある。
TAP BOYSの振付師も、今回ばかりは傍観者となりましょう。

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2006-08-26

年代による感じ方

学校の夏休みも残り1週間を切った。
息子が現代文の宿題に苦しんでいる。
夏目漱石「こころ」の作品論。


とりあえず読んで感じたことを書き出して、そこに自分なりの分析を加え、
論理的に組み立てればいいだろうと思うが、ことはそう簡単ではないらしい。
ぽつぽつと書き出してはいるものの、うまくまとまらないようだ。


そもそも読むこと自体、“遅々として進まず”状態だった。
まあ、心浮き立つ夏休みに読んで楽しい内容ではないから。


せっかくのチャンスだと思い、私も「こころ」を読んだ。
高2の教科書に抜粋で登場し、
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
の名ゼリフで学年中にセンセーションを巻き起こした名作。
いつか全編を読もうと思いつつ、いまに至っていた。


読み終えて思った。
これを16、17歳に論じさせるのはなかなかきついな、と。
私がその年頃に課題を与えられていたら、深く読み取ることができずに
こじつけめいたことを書き連ねたのではないだろうか。


高校時代、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」とジッドの「狭き門」が
課題図書として出された時のこと。
「狭き門」はまだいいとして、「ウェルテル」のほうは読んでいる間中
ずっとむずむずしてたまらなかった。
女性を想うあまりの自殺なんて、きもちわるい、と思った。
潔癖すぎるほどの若さの前では、悩めるウェルテルは
「めめしいー」のひとことで斬り捨てられるのだった。


いま読んだら、おそらく受けとめ方は違っているだろう。
「こころ」もそうだ。
「先生」の年齢に近いいま読むからこそ、「先生」のこころの機微に触れる。
ああ、そういうことか、と感じ入ることができる。
読んでよかったと思った。


逆に考えると、16歳には16歳にしかもてない感じ方がある。
それでいいんだと思う。


感じたままに論じてごらん。

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2006-07-20

なつかしの決めゼリフ

1学期の終業式を終え、息子は明日から夏休み。


もうそんな時期か。
暑さは長続きせず、むしろ気温は低めだし、
いつまでもじめじめ雨模様でちっとも梅雨は明けないし、
7月後半だなんて実感ないけどね。


ふと見ると、息子がうかない顔をしている。
梅雨空と同じどんより。


「宿題いっぱい…」


そりゃたいへん。
どうぞがんばってお取り組みくださいな。


「現文(現代文)なんてさ、今日になっていきなり出すんだからさ。
あ~あ、またひとつふえちゃったよ…」


ほう。
現文ときたら、きっとまた作品を読んで「鑑賞文」とか「評論文」とか
書けっていうんでしょうな。


「そ。『こころ』を読んで“作品論”を書け、だって」


「こころ」って夏目漱石?
「先生」とか「私」とか出てくるんだよね?
いやぁ、なつかしい!
ものすごく流行ったセリフがあるのよ、えっとえっと、なんだっけ。


「なんでそんなに興奮してるの?」


だってね、「こころ」って高2の現国(現代国語)で習ったんだけどね、
なんだか知らないけど2年生中でブームになったのよ。
でね、決めゼリフがあったの。
えっとね、たしか最後に「馬鹿だ」っていうのよ。


さっそく調べて判明。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」


はいはい、これです、これ。
ああ、なつかしい。
みんなして人の顔見りゃこのセリフを連発していた記憶がある。
どうしてそんなにもヒットしたのかよくわからないんだけどね。


それはさておき、読まないことには「作品論」も書けやしない。
すぐさま文庫本を買った。


「え…、こんなに分量あるの…?」


正味300ページに青くなる息子。
ハリー・ポッターだってダ・ヴィンチ・コードだってさっさと読みこなすキミが
なにをおっしゃる。
読めばきっとおもしろいよ。


精神的に向上心のないものは馬鹿だ、よ。

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2006-07-06

アクセント辞典

本を2冊買った。


1冊は「DEATH NOTE 12巻」。
おととい発売されたばかりの最終巻。


なるほど、そうきたか、という終わり方。
試験中の息子も息抜きと称して一気に読んだ。
全巻揃えちゃおうか、なんて顔を見あわす息子と母。


さて、もう1冊は「日本語発音アクセント辞典:NHK放送文化研究所・編」。
やっと買ったな、という感じ。


前からほしいとは思っていたものの
とりたてて緊急性はなかったので買わずにいた。
といって今回も何か必要に迫られたわけでもないんだけど、
やっぱり手元に置いときたいなぁと思って。


いま行っている研修で「損益計算書」ということばが出てくる。
このことばを私が正しいと思っているのとは違うアクセントで話す受講者が
少なからずいるのを不思議に思ったのが、この辞典を買う直接のきっかけ。


私は「そんえきけいさんしょ」とどこにもアクセントをおかないでいう。
しかし、違和感を覚えたのは「んえきけいさんしょ」と
「そ」にアクセントをおくいい方。


確かに「損益」という二字熟語においてはアクセントは「そ」にあるんだけど。


書店でアクセント辞典を2種類見つけたのでさっそく調べてみた。
1冊目には「損益」しか載ってない。
2冊目には「損益計算書」が。


えぇっ、「そんえきけいさんしょ」でも「んえきけいさんしょ」でもいいんだって。
へぇ~。
これ、買おう。


ちなみに、アクセント辞典との出会いは子ども時代にさかのぼる。
母が持っていて、「これで調べなさい」とよく渡されたものだ。
だから、むかしからアクセント辞典って好きなのだ。

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2006-06-30

GQ JAPANにもDEATH NOTE

「ちょっと、これ見てごらんよ」と夫が雑誌を私に差し出した。
GQ JAPAN 8月号
中田英寿が不敵な笑みを浮かべてこちらをにらんでいる。


「『DEATH NOTE』がのってるよ」
なになに、どれどれ。


おお、見開き2ページで紹介されている。
それも、「『デスノート』に学ぶ相手の一歩先を読む戦略。」として
伊藤秀史さんという一橋大学大学院教授が論じているのだ。


思わずむさぼるように読んだ。
そうそうそう、そうなんだよ。
私が漠然と思ってたことをこの先生はずばり言い表している。


うれしいなぁ。
こんなふうに「DEATH NOTE」のエッセンスを論理的に解き明かしてくれて。


中でも深く共感したのは
「自分の本来の目的を常に見失わないでいることは非常に重要」
というくだり。


そうそう、そうだよねぇ。
何か問題に突き当たった時、冷静に本筋を見極めて、論理的に思考する。
「もし『夜神月だったら?』『Lだったら?』どう仮説を立てるだろう」と想定してみる。
私にとってはちょっとしたモデル。


ところで、あちこちで話題になっている「DEATH NOTE」。
今日6月30日付の日経MJにも、日経新聞夕刊にも紹介されていた。
MJのほうはプロモーションについて、夕刊のほうは短い映画評。


この映画評にはむっときた。
夜神月のライバル・Lのことを「オタク青年」だなんて。許せん。


オタクじゃないよ。全然違う。
ちゃんと確かめてから書こうよ。
ことばには気をつけてほしいもんだ。

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2006-06-29

はまっているもの

「DEATH NOTE」にはまっている。


この間観た映画もそうだけど、いまはむしろ原作のコミックのほう。
今日やっと11巻を読み終えた。
とにかく早く先の展開が知りたくて、かなりすっ飛ばして読んだ。


そもそもコミックを「読む」という感覚はなかったんだけど、
登場人物たちがみなこむずかしい顔をしてよく語るのだ。
書かれている細かい文字(彼らのセリフや心の中のことば)をちゃんと読まないと、
話が見えなくなってしまう。


それにしても、映画で藤原竜也が演じていた「夜神月」、
こいつがとんでもなく悪い。
とにかく度を越して悪い。
最初はおもしろがっていた私も、
巻が進むにつれてだんだんむかむかしてきた。


映画やなんかで悪役に惹かれる、なんて話をよく聞くけど、
私にはそれはないな、とあらためて思った。


私は正義の人が好きだ。
それも、孤高の人。


そういう人物も出てくるから、そこに当然肩入れする。
一方、キライなキャラクターはぼろくそにけなす。


「いやいや、よくそこまで語るね」
息子は半ば呆れ顔。
「うちのクラスの連中よりも詳しいかも。
『DEATH NOTE』について熱く語る保護者なんて、そうそういないよ」


そうかしらね。
でも、この間地下鉄で「DEATH NOTE」読んでたおじさんいたじゃない。
おもしろいものは年齢に関係なくおもしろいんだよ。


すでに連載は終了していて、結末を知ってる人は知っている。
単行本の最終巻が出るのは7月4日。
息子の期末試験初日だ。


いままでは息子の友人たちからお借りしていたけど、
最終巻は買っちゃおうかな、とかなり本気で思っている。

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2006-05-25

店長の教科書

Photo 商業界から「店長の教科書」という本が出た。


編集者の鹿野さん(うれしいことに高校の後輩)のことばを借りると、
「新人店長に送る、仕事を楽しくするヒント満載の1冊!
『今すぐ使える』『必ず役立つ』内容がてんこもりです」。


確かに。
さまざまな店長さんたちのインタビューあり、
店長経験をもつコンサルタントたちからのアドバイスあり、
商売の基本の解説あり。
読み応えありそう。


この中で、私は夫とともに「店長のスタッフ教育入門」を担当している。
ネタ出しは夫、文章に練り上げたのは私。


この原稿、書いてて楽しかったなぁ。
自分が店長時代、こんなことを知ってたら…と想像したりして。
紙面の制限があるからかなり絞り込んで書かざるを得なかったけど、
ポイントは押さえているので現場の店長に役立つはず、と自負する。


ところでこの間、研修を受講した方から「リーダーシップを一言でいうと?」
という質問を受けた。


う~ん。リーダーシップねぇ。
「目標達成のためにチームのモチベーションを上げること」かな。
それが長いこと考えた末の私の考え。


自分の店長時代を振り返ると、若さと勢いだけが取り柄の店長だったと思う。
自分の青くささが鼻について、早く大人になりたい、とそればかり考えていた。
ただ、お店のムードメーカーではあったかな。


「店長はオーナー夫妻(私の両親)よりコワイ」と
アルバイトたちは口を揃えていったものだし、
わがままなアルバイト(男子)に「店長なんか女じゃないっ」といわれたときには
「ああ、女だと思ってたら店長やってられないんだよっ」と啖呵を切ったものだ。
(アルバイトは絶句。私を困らせたかったようだけど、ざまあみろ)


とにかく鼻っ柱が強いことこの上なかったけれど、
その反面、みんなを盛り立てていくことはできていたと思う。
いいアルバイトたちに恵まれた時の、チームが盛り上がるおもしろさ。
肉体的にはきつくても仕事は楽しかったよなぁ。


…などと、ちょっと思い出なぞも振り返ったりして。
「店長の教科書」、興味のある方はぜひ書店で。

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2006-05-21

「パニックしました」

「英語でしゃべらナイト」に松岡祐子さんが出ていた。
松岡さんはいわずとしれた「ハリー・ポッター」の翻訳者。
(で、私にとっては高校の大先輩にあたる)


「しゃべらナイト」で松岡さんは
「英語だけでなく自分の国のことばをしっかり勉強するのが大切」
というようなことをおっしゃっていた。


同感。
将来国際人として活躍させたい、といって
小さい頃から英語を学ばせる親御さんも多いようだけど、
まずは母国語ありきだと思う。
ま、もちろん両方きっちり身につくならいうことなしだけど。


日本語のもつことばの美しさを大事にし、
きれいな敬語をさりげなく話すことができ、
そのうえ英語が流暢に話せる。
完璧。


たぶん松岡さんはそういう方なんだろうな。
「ハリー・ポッター」の描写部分は実に格調高い。
(時に、私が読んでもちょっと古めかしいと感じることばが出てくるけれど)


ただ、ハリーと同い年の息子をもつ身としては、
若者たちの話し言葉に関してすこしがっかりさせられる。
松岡さんが無理をなさっているような違和感を覚えるのだ。


「マジ」ということばが出てきた時には、
ついに松岡さんもいまどきの若者ことばを取り入れることにしたんだな、と思った。
第5巻まで、ハリーをはじめ子どもたちは優等生的な話し方だったので、
これは画期的だな、と。


しかし、あとが続かなかった。
「パニックしました」というハリーのセリフが出てきた時には
「ああ、ご存知ないならいっそ使わないほうがよかったのに」と思った。


念のため息子に確認したけど、やっぱり「パニックしました」とはいわない。
いうとすれば当然「パニクりました」だ。
そんなへんてこな日本語が使えないなら、「あせりました」あたりが妥当なのに。


きっと「ハリー・ポッター」は後世まで読み継がれていくことだろう。
ならば、若者たちのセリフも含めて普遍的な美しい日本語でいいと思う。
でなければ、ハリー世代の子どもたちをリサーチしてそれを反映させるとか。
(お忙しくてたぶん無理だろうけど…)

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2006-05-19

ハリー読了に思うこと

息子に続いて「ハリー・ポッター」第6巻を読み終えた。


「なに、これ?」というのが読後の率直な感想。
怒り、かな。作者に対する。


第1巻から「ハリー・ポッター」シリーズが大好きで、
作者は「子どもの気持ちを忘れない子どもの味方」と思っていた。
だけど、今回は彼女(作者のJ.K.ローリング)が
ほんとうに子どもたちに宛てて書いているのかどうか大いに疑問に思った。


彼女は子どもたちに何を伝えたいの?
子どもたちに何を望んでいるの?


もしかしたら、それは最終巻である第7巻を読まなければ
わからないのかもしれない。
1巻から7巻までとおして読んではじめて見えてくるのかもしれない。


としても、むごい。
主人公のハリーにとっても、読んでいる子どもたちにとっても。
作者自身が「最終巻に向けて話はどんどん暗くなる」と語っていたようだが、
暗いというよりむごい。


過酷な運命のもと、主人公は極限状態の中で否応なしに大人へと成長していく…
とでもいえば聞こえはいいけど、
これでもかこれでもかと希望が奪われていく展開にはちょっと嫌気がさした。
こんなふうに感じたの、ハリーを読んでてはじめてだ。


まして、これから先いつとも知れない最終巻の出版まで
子どもたちに宙ぶらりんな思いを抱えたままでいさせるの?
おとなだってそんなのつらいのに。


ローリングさん、どうかはやく最終巻を書き上げて
いまの私の思いが杞憂だったと知らしめてください。

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2006-05-18

読書体験の共有

ハリー・ポッター第6巻、息子は夕飯前に読了。
大きくバンザイをする私に、彼はぽつり。
「本読んでこんなにつらくなったの、はじめて」


ほう。
それ以上は聞かずに私も続きを読むことにいたしましょう。
上巻はゆうべ読み終えたので。


内容のつらさと虚脱感とで、息子は食欲がわかない様子。
「読み終えて胸がいっぱい」


そうかそうか。
私も急いで読むので、その後たくさん思いを共有いたしましょうぞ。
私が読み終えたら、今度は父さんが読む番ね。


いつのころからか、わが家では家族三人で読書体験を共有するようになった。
そのはじまりはたぶんハリーだったと思う。
ハリー・ポッターが出版後しばらくしてブームになった時、
息子はその厚さゆえに見向きもしなかった。
「読むの時間かかりそうだもん」


でも、どういう拍子だったか手にとってからは一気にハリーの世界に
引き込まれた。
ならば、と私も読んだら以下同文。
そして、夫も右ならえ。


私が薦めて家族ではまったのは、石田衣良さんの「ブルータワー」。
これは息子の愛読書になったし、
夫も読み始めたら「やめられない・止まらない」だった。
衣良さんの「約束」は三人して胸をつまらせたっけね。


さて、かねてより夫が息子に薦めている本がある。
司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」全8巻。
高校に入ったらぜひ読んでほしい、という父からのリクエストに
息子はまだ応えていない。


読んでほしいなぁ、この本は。
私も大好きだよ、竜馬。
なにより、この本はアナタの名前のルーツなんだからね。

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2006-05-17

ハリー6巻発売

今日は息子待望の「ハリー・ポッター」第6巻の発売日。
本屋で朝一に買うかそれともネットで予約するか、
さんざん迷ったあげくアマゾンに注文したのは今月に入ってから。


息子としては、学校に行く前に朝早くから売り出す本屋で入手したかったところ。
そして、通学時間・休み時間・ありとあらゆる空き時間すべてを
読書に当てたかったはずだ。


ところが残念なことに、今日は遠足。
修学旅行の予行演習だからと羽田空港に集合し、その後横浜散策。
なんともご苦労さまなコース。
ハリーどころの騒ぎじゃない。


ということで、彼は横浜遠足から大急ぎで帰りむさぼるように読んでいる。
上下巻合わせてほぼ1000ページ。
たぶん明日中に読み終わるんだろうな。
ま、そうしないと来週半ばに迫った中間試験の勉強も始められないし。


私も早く読みたいけど、まずは息子が読んでから。
でも、「オレが遠足に行ってる間、先に読んでていいよ」とめずらしくお許しが。
自分より先に読んでしまうのはシャクだけど、
私が筋を知ってても思わせぶりな態度をとったり
ひけらかしたりしないとわかっているから、よしとしたんだろう。
はいはい、期待は裏切りません。


アマゾンからはきのうの日中に「発送済み」のメールをもらっていた。
午前中配送指定のペリカン便で届くという。
朝9:00に届いたとして、息子が帰る夕方まで時間はたっぷり。
読むのは結構早いほうなので、上巻は読み終えることができるだろう。


…と、手ぐすね引いて待ってるのに、来ない。
「ピンポーン」と鳴って喜び勇んで出ると、西濃運輸。
また「ピンポーン」と鳴るから今度こそと出ると、クロネコヤマト。


ちょっと。
いつになったら来るのよ。
もう11:30だよ。
なにが「午前中配送」よ。


とイライラしているところに今度は電話。
仙台の弟からで、すぐさま彼のリクエストに応じて熱唱を始める。


ワンマンショーが佳境に入ったまさにその時、「ピンポーン」。
やっとペリカン便到着。
午前中指定、ね。確かにまだ午前中ではあるけれど。


ペリカンさんから本を受け取って、さらにまた弟に歌を歌って、
お昼食べて、仕事のお電話をいただいて、
結局本を開くことができたのは14:20。
息子が帰るまでの2時間余、しばしハリーの世界に浸る。


上巻の半分しか進まなかったけど、やっぱりおもしろい。

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2006-04-11

「ダ・ヴィンチ・コード」読了

「ダ・ヴィンチ・コード」をさっき読み終えた。
ああ、おもしろかった。
息子がそばでニヤニヤしてる。
お待たせしました、これであれこれ話ができるね。


文庫本上・中・下巻、全844ページ。
平均1日1冊、3日で読んだことになる。


「はやっ」と息子。
「オレもずいぶん本読むの早くなったけど、かなわないな」


脇から夫が口をはさむ。
「そんなに早く読んで目が疲れない?」
「なんで?」と私。
「眼球をすばやく動かしてさ」


う~ん、自分では読むのが早いなんて思ったことない。
急いであわててすっ飛ばして読んでるつもりもないし。
人にいわれなければわからない。


自分の特性なんて、そんなものなのかもしれない。
自分にとってはあたりまえすぎてなんでもないことが
他人の目には得意分野と見えたり長所と映ったり。


もし私の読み方が早いんだとしたら、
それは限りある時間の中でどうしても早く先が知りたかったから。
それほど「ダ・ヴィンチ・コード」は読ませる本だった。


息子は「宗教的なことがよくわからなくて…」といっていたが、
読んでいて「ははーん、このへんのことだな」と察しがついた。
私も彼と同じ年頃にはあまり興味もなく、知らなかったことだ。
そのへんのことを知るようになるのはずっとずっとあとに
劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」を観てからだもの。


そんな話も含めて、遠慮なくすみずみまで語り合える。
5月20日公開の映画も楽しみだ。
原作を読み終えたあとに観る予告はどの場面かわかるだけに
ことさら興味深い。


今度は夫が息子にせっつかれる番。
読まなきゃいけない本をたくさん抱えている夫はやや困惑顔だけど。


無理しなくていいよ。
映画を観てから原作でも悪くないと思うよ。

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2006-04-10

ダ・ヴィンチ・コード

いま話題の「ダ・ヴィンチ・コード」をゆうべから読み始めた。


おもしろい。
やめられない。
早く先が知りたい。
…で、上巻読了。


実は、息子からずっとやいやいせっつかれていた。
「早く読めよ。すっごくおもしろいから。読まないと話ができないじゃん」


読み始めた私に、今度は進捗状況を聞く息子。
「いまどこ? ○○はもう出てきたとこだっけ?」


彼は、学年末試験が終わるのを待ちかねるようにして
上・中・下巻の3冊を一気に読んだのだった。
読んでみて、息子がそれだけのめりこんだのがよくわかる。
このおもしろさ、早く誰かと分かち合いたいよね。


息子には「ナルニア国物語」も読むようにいわれている。
「7巻だけどさ、読むの早いからすぐ読めちゃうよ」


そうだねぇ。
この間映画を観て、先はどんなお話なのか興味あるなと思ってたところ。
「ダ・ヴィンチ・コード」も、2日前に映画館で観た予告編に触発されちゃった。
やっぱり原作も味わっておきたいよね。


ともあれ、本を読むのが好きなティーンエージャーでよかったなと思う。
きのうのTAP BOYSの少年たちも本の話をしていたので
「いいぞ!キミたち!」と内心とってもうれしかった。


本を読む、っていうのは知識と教養と想像の源じゃよ。うむ。


息子からいっぱい本を薦められているのでお返しに私からも課題図書を。
認知心理学の市川伸一先生著:「勉強法が変わる本~心理学からのアドバイス」。
ほぉ、と納得することうけあい。役に立ちます。


私も、「ダ・ヴィンチ・コード」と並行して「産業心理学への招待」を読み始めた。
これまたなかなかおもしろそう。
通信大のテキストです。

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2006-03-17

衣良さんのサイン会

息子とふたりで石田衣良さんのサイン会に行った。
初エッセイ集「空は、今日も、青いか?」の刊行記念。


私も息子も衣良さんのファン。
サイン会に参加するにはその新刊を買って先着100名の整理券を
もらわなければならない。
よっぽど2冊買ってふたりして並ぼうかとも思ったけど、1冊分のチャンスを
息子に譲ることにした。
自分の好きな表現者にじかに会う感激を感性のみずみずしい時にこそ
味わってほしいと思ったから。


でも、私もお会いできたのだ。思いがけなく。
緊張しました。どきどきしました。笑顔が引きつりました。


衣良さんのサイン会では写真撮影も構わないと聞いたことがあったので
一眼レフデジカメを持参していた。
実際、衣良さんも「写メールでもデジカメでもどんどん撮ってください」と
会の冒頭に挨拶していた。


撮影するのは出版社のスタッフらしい若い男性。
受付スタッフが参加者からカメラを預かり、撮影担当者に渡す。
息子が一眼レフを差し出した時、受付の人はちょっとだけひるんだ。
そして、脇にいた私に顔を向けると「お撮りになりますか?」。


というわけで、私も衣良さんの前に立つことができたのだ。


「じゃ、3人で撮りましょう。どうぞ真ん中へ」と衣良さん。
遠慮する私にあくまでも真ん中を勧め、息子には「腕を組んで」。
私は右側の衣良さんの左腕と、左側の息子の右腕に自分の腕をかけた。
「こんなのもいいでしょう?家族写真」と衣良さんはほほえんだ。


本には、息子の名前と「思いきり遊ぶ 石田衣良」というサイン。
勉強が一生懸命がんばれるようなメッセージを、という息子の要望に
「いま何歳ですか?…16歳?・・・ん~、いまは思いきり遊んで、
10年後にやりたいことが見つかったら一生懸命がんばればいいよ」
といって、書いてくださったもの。


息子も私も、とってもあったかい気持ちを胸に池袋を後にした。

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2006-02-10

本を読みましょう

いま私の本棚には、
読みたい本やら読まねばならない本やらがずらり並んでいる。


読みたい!と思って買うものの、
読むための時間をとらないままにまた新しい本がほしくなるのね。


読みましょうね。
並べとかないで。
時間作りましょうよ。


ということで、今日1冊読み終えた。
太田肇・著「認められたい!」。


だれでも「認められたい」という承認欲求があるんだよ、
その承認欲求をうまく活かせば、人はやる気になるんだよ、
という本。


ふむふむ、なるほど、ごもっとも、とおもしろく読めた。
本によれば、日本人は承認欲求をあまり表に出さないというが、
私なんてこどものころから自己顕示欲が強くて
承認欲求が強いという自覚はあったよね。


「名誉欲や自尊心を満足させることと、
それらを傷つけることとは隣り合わせです。」
本の中でいちばん印象に残ったフレーズ。


さて、手元に本がどっさりあるにもかかわらず、
また読みたい本がでてきた。


「ハッピーになれる算数」。


雑誌に著者・新井紀子さんのインタビューが載っていて
がぜん興味をひかれた。


いまは数学者の新井さん、中学・高校と数学が大っ嫌いだったという。
その彼女が数学の必要性を痛感したのは、法学部時代。
表現力やコミュニケーション能力が高くても説得力に欠ける人は、
構成能力や論理力が不足しているから、と発見。
その力をつけるために必要だったのは数学だ!
とはじめて興味を持ったんだって。


う~む。
論理的思考にはやっぱり数学か。
おもしろそう。


やっぱり読みたい。

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2006-02-04

きのうも今日も映画

きのうは「THE 有頂天ホテル」、
今日は「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」と
2日続けて映画を観てきた。


「THE 有頂天ホテル」は期待を裏切らない面白さ。
ちょこちょこちょこちょこ笑わされる。
出てる人たちがみんな上手いなぁ。


「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」はこれで3回目。
劇場ではこれが見納めのつもりで息子と行った。


ハリーのシリーズはこれが4作目で、
旧作もそれぞれに趣きがあったけれど、
今作「炎のゴブレット」が映画としていちばんいい。
というか、いちばん好き。


原作を読んるから筋は知ってるし、その先だって知ってるのに、
どうしてこうもハリーは次から次と試練を乗り越えなきゃないの、
と観るたびに身がよじれる思いがする。


それと、なんでこんなにハリーは気高いの、と
これまた観るたびに胸が熱くなる。
(原作読んでてもそうなんだけどね)


こうもハリー・ポッターに感情移入するのは、
息子を重ねてしまうからなんだろうなぁ。
ハリーも、ハリーを演じるダニエルも、息子とほぼ同年代だから。


ところで、大好きな「炎のゴブレット」ではあるけれど
ひとつだけどうしても納得のいかないことがある。
それは、ダンブルドア。


原作のダンブルドアは、どんな窮地に追い込まれても悠然と構え、
いつも堂々としている。
一方で茶目っ気もあり、心から信頼を寄せ、尊敬することのできる
愛すべき素晴らしい人物だ。
ああ、それなのにそれなのに、
「炎のゴブレット」のダンブルドアは情緒不安定すぎ。


演出のせいなのか、演じる俳優に起因するのか。
(2作目撮影終了後に急死したリチャード・ハリス氏は
実に理想的なダンブルドアを演じていた)


次の「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」に乞うご期待。

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2005-11-26

ハリーふたたび

「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」をまた観てきた。


試験が近いから先行レイトを観て満足するつもりが
すぐにでもまた観たいね、と家族三人意見が一致。
即、手持ちの前売り券で指定を取ったのだった。


ところが思いがけない息子の病気。
う~ん、どうだろう、と迷うところだったけど
きのう、ダメもとで医師に聞いてみた。


「全然問題ないですよ~。あったかくして行ってくださいね」
とあっさりお許し。
ということで、本人に熱と頭痛がないことを確認し、映画館へ。


「炎のゴブレット」はほんとうにいい。
もともと「ハリー・ポッター」シリーズの原作が好きだし、
今までの映画3作もそれぞれにそれぞれの良さがあって
それなりに好きではある。
(ま、一長一短あるけれど)


でも、「炎のゴブレット」は秀逸。


ハリーのつらさや切なさ、苦しさが痛いほど伝わってきて
しばしば胸がしめつけられる。
とりわけ、亡きお母さんが現れるところは
こみあげるものを抑えられなくなる。


原作者のローリングさんは
お母さんの愛に包まれていることを感じとっていたんだろうなぁ、
そしてお母さんが大好きだったんだろうなぁ、と思った。


ローリングさんはいったいハリーにどんな結末を用意しているんだろう。
早く先が読みたいと思いつつ、
しばし映画「炎のゴブレット」を堪能していよう。

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2005-11-19

ハリー・ポッターと炎のゴブレット

「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」を
先行レイトショーで観てきた。


ひとこと、いい映画だった。
見ごたえあった。
ひと足早く観ることができてよかった、と心から思う。


特殊映像の迫力に圧倒され、
スピーディーなストーリー展開に引き込まれた。


でも、それ以上に魅せられたのは
スクリーンの中で息づいている人物たちだ。


「炎のゴブレット」の原作を読んだとき、
それ以前の巻に比べると
ページをめくるのがとてもせつなかった。


少年たち(とくにハリー)の心の痛みを思うと
ほぼ同い年の自分の息子に重ね合わせて胸が苦しくなった。


スクリーンの中の少年や少女たちの生々しさは
よりいっそう胸に迫った。


思春期の心の揺れ。
14歳には重過ぎる宿命。


またハリーと息子を重ねて泣きそうになった。

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2005-10-16

To be or not to be

本棚を探したらあった。
「シェイクスピアより愛をこめて」。
シェイクスピア翻訳で有名な小田島雄志氏の本。


買ったのは高校生のときだと思う。
1200円は当時の私にはとても高くて迷ったけど、
それでもほしくて思い切って買ったように記憶する。


ページをめくるとやっぱりあった。
ハムレットの有名な独白「To be, or not to be」の
代表的な日本語訳。


最初の訳は明治7年、イギリスの通信員によってなされた
「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」。


笑っちゃうよね。
ハムレットが深刻な顔して「アリマス、アリマセン」って。


実は、きのうの「天保十二年のシェイクスピア」で
明治から昭和にかけてさまざまに訳された「To be, or not to be」を
言い分けるシーンがあったのだ。
演じたのは「きじるしの王次」の藤原竜也。


つくづく思った。
「To be, or not to be」って奥が深いのね。
訳し方によって伝わり方が全然違ってくる。


そしてさまざまな「To be, or not to be」の最後を飾ったのが
「アリマス、アリマセン」。客席は笑いの渦。
笑いながらあれ、私これどっかで読んで知ってたな、と思ったのだった。


それにしても、「To be, or not to be」のような正統派の芝居でこそ
藤原竜也は光るなと思った。
はじめて観る彼の歌と踊りを結構期待してたんだけど、
う~ん、天はニ物を与えずというか。


出演者すべてが芸達者だった中で、特に印象的だったのが毬谷友子。
オフィーリアとジュリエットのモチーフを演じたんだけど、
これぞ!というはまり役。繊細で、うまい。
ぜひ全幕通しての両役を観たいものだと思った。

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2005-06-04

商業界の掲載文

05-6-4 商業界7月号が今日手元に届き、
やっと自分の掲載部分とご対面。


単行本にしろ雑誌の掲載文にしろ、
自分の書いた文章がどんな文字体でどんなふうにレイアウトされ、
どんなイラストがつけられて披露されるのかわくわくするものだ。


パソコン上で打ち出した文章が衣装を着て、舞台に上げられて、
照明を当てられてお披露目される感じ。


今回目を引いたのは、夫婦の3つの会話例がマンガになってたこと。
偶然なのか、マンガのご主人はめがねをかけててどことなくうちの夫に似てる。


奥さんのほうは髪が長いし、しれっとした感じに描かれてて、私とは違うわね。
(だれっ? 「しれっとした感じがそっくり」って言ってるのは?)


マンガの効果もあり、ぱっと見てわかりやすい構成。
私の書いた文章はなんら変わっていないんだけど
演出いかんでこんなにも印象が変わるものねぇ。


それにしても、3つの会話例では
奥さんとご主人が交互に「悪者」になるよう書き分けたつもりなんだけど、
このマンガだと全部奥さんが憎まれ役…


う~ん、そんなつもりじゃなかったんだけど。
ほんとは全部夫を悪者にしたかったくらいなのに(!)。

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2005-06-02

夫婦で仕事

きのう発売の月刊商業界7月号に
私の執筆文が掲載されている(ようだ)。


「ようだ」というのは、実は現物をまだ見ていないから。
でも、掲載されているのはちゃんと商業界さんに確認済み。
「夫婦経営のコミュニケーション講座」というタイトルらしい。


掲載誌が送られてこないのは商業界さんの手違いらしく、
急ぎ送ってくださるとのこと。
きのう近所の書店に行ったら並んでなかったのよね。残念。


私が書いたのは、「夫婦と商売。」という特集の一部。
夫婦って、近すぎるだけに一緒に商売となるとなかなかむずかしい。
そのむずかしさを少しでも減らしてうまく商売していけるような
コミュニケーションのコツを書いてくれ、というのが依頼の内容だった。


えぇーっ、コツがあるならこっちが聞きたい!
依頼をいただいたとき、正直そう思った。
でも、すごくおもしろいテーマ。
やっぱり書いてみたい、と思いお引き受けした。


夫とともに仕事していることをよく「協力し合えていいですね」とか
「仲よく仕事ができてうらやましい」とかいわれる。
ま、そのとおりだな、と思う。
その反面、私たちおたがいの努力のたまもの(!)とも思う。


実際、近すぎるがゆえに心がざわざわ波立つ…、なんてしょっちゅう。
(たぶん相手も)


でも、今回の原稿を書きながら
あらためて「夫婦のあり方」を考えさせられた。
夫婦であること自体、けっこうむずかしいこと。
だって、そもそも違うもの同士なんだもの。


だからこそ力をあわせたり補い合ったりするのがおもしろいのかも。
「違う」ことをおもしろがれるようになってきたのかもしれない、と思う。

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2005-05-31

読んでほしい人

05-5-31息子は私の本をこまめに宣伝してくれているらしく
彼の働きかけのおかげで学校の図書室に新しく入ったそうだ。


さっそく息子のクラスメートが目にとめて
学校ではなく近所の図書館から借りたという。


その友だち、明日の現代国語の授業で
本の紹介をするスピーチで私の本を取り上げるんだそう。


学校にいる息子がメールをよこし、
スピーチ原稿を書いている友だちの代わりに聞いてきた。
「この本、どんな人に読んでほしい?」


偶然なんだけど、実はそのことについて考えていたところだった。
この本をどんな人たちに読んでほしいのかを。


仕事や生きることに迷いながらもなんとか前に進もうとしている人。
前に進みたいのに不安に悩まされて苦しい思いをしている人。


そんな人たちに読んでもらえたらと思う。


でも、いまあらためて書いていたころを思い返すと
いつも「若い人」が念頭にあったことを思い出した。


若い人。
これから不安のタネがうずまく社会に飛び出そうとしている若い人。
もしくは飛び出したばかりの若い人。


高校生にも読んでもらえたらうれしい。

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2005-05-26

男脳、女脳

「話を聞かない男、地図が読めない女」というベストセラー、
夫はかなり目からウロコだったらしい。


「ふーん! 男と女っていうのはそもそもこんなにちがうもんなんだ、
と思ったよね! うまくいくほうがどうかしてるくらいにさ!」


おもしろいから読んでみるといいよ、と手渡された本には
あちこち赤線が引かれ、ポストイットがじゃんじゃん貼られていた。


うーん、男と女、そんなにもすっぱりと分けられるものなのかしらねぇ。
なんとなく気乗りせず、しばらく本は棚にほうりなげられたまま。


最近になってやっとページを開き、読んでみた。
夫は「うん、うん、うん、うん」の連続だったようだが
私の場合は大方「なるほどねー」と納得するものの
ところどころ「そうかなぁ?」としっくりしないところが。
とくに女性に関する解説で。


たしかにこういう女性いるよねー。
でも、私はちょっとちがう気がする。うん。


本の中に「男脳・女脳テスト」があったのでやってみた。
夫がこのテストを実施したのはずいぶん前だったけど
かなり「男脳」度が高かったと思う。
さて、私の結果やいかに。


私の得点は男脳と女脳の間の「オーバーラップ」に位置していた。
オーバーラップ。
「男と女の両方に片足ずつ踏みこんでいるようなもの」だって。


なるほど。
納得。

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2005-03-31

奇妙な敬語

嶽本野ばらの「下妻物語」は、ひらひらロリータファッションの竜ヶ崎桃子と
ばりばりのヤンキー娘、白百合イチゴの珍コンビぶりがおかしい。
現実にはありそうもないこのふたり組みのやりとりには読みながら
ずいぶんおなかを抱えて笑った。


とくに、イチゴがはじめて桃子の前に現れるシーンのせりふがふるっている。


「お嬢ちゃん、あたい、白百合ってもんなんだけど、桃子さん、おられるですかなぁ」


「おられるですかなぁ」!!
これにはひとしきり笑ったね。涙が出るほど。


だけど、実際おおまじめに「おられるですかなぁ」ときたら笑うに笑えない。
現実問題、それに似た奇妙な敬語が横行しているわけで。


言ってる本人はていねいなつもりなのだ。
でも、なんでもかんでも「お」とか「ご」とか「れる」「られる」を
つければいいってもんじゃない。


レストランの入り口で、したり顔した若いウェイトレスに
「おタバコはお吸いになられますか?」なんていわれると背中がむずむずする。
シンプルに「お吸いになりますか?」っていえばいいのに。


あまりに敬語表現の乱れが目立つということで、
文科相が敬語の使い方の具体的な指針づくりを文化審議会に諮問したそうだ。


それで正しい敬語がすぐに浸透するとも思えないけど
「おられるですかなぁ」的ヘンな敬語がこれ以上蔓延しないよう
手を打っておくことは必要だと思う。

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2005-02-14

ご感想をいただいて

こう書房のイワサキさんからメールがきた。
イワサキさんは去年出版した私の本の編集者さん。
読書レビューをいただきました」だって。


なになに…!?
思わず期待で胸がおどる。


西洋占術研究家のムーン・フェアリー・ヒロコさん
私の本に感想を寄せてくださったのだという。


冒頭に、ムーン・フェアリー・ヒロコさんの不安症状と
私の執筆期間の不安症状とがまったく同じだとあり、びっくり。
その不安症状についてはあとがきに書いていて
あくまでも「私自身の個人的なこと」というスタンスで告白したのだったが、
まさかすっかり同じ方がいらっしゃるなんて… 


それにしても、なんてていねいに読んでくださっているのだろう。
ひとことひとことがこころに響き、読むうちに温かい想いで胸がいっぱいになる。


――この本は不安を感じる人に対する「応援歌」です。――


そういっていただけたらほんとうにしあわせ。
著者冥利に尽きるというもの。
私の想いに共感してくださる方がいらっしゃる… 
それがこのうえなくうれしい。


自分の書いたものをお目にかかったことのない方が読んでくれて
何かを感じてくれる。
その縁の不思議さにちょっと感動してしまう。
今日は、「本のご縁」がもうひとつあって、
息子のクラスメートのお母さまと本をきっかけに初めて親しくお話ししたのだった。


本は読み手がいて初めて成り立つもの。
私の本を読んでくださった方、ほんとうにありがとうございます。
これからも、ひとりでも多くの方の手にとっていただけますように。

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2005-01-19

きらら

「きらら」最新号が届く。
「きらら」とは、小学館が発行する“新文芸”月刊誌。
表紙には「携帯メール世代に送るストーリーマガジン」とある。
んー、私は“携帯メール世代”には当たらないと思うけどね。


何本も連載小説がある中、楽しみにしているのがいくつか。
ひとつは「続・下妻物語」。
昨年深キョン主演で映画化された「下妻物語」の続編だ。
「下妻」ってきっと変な話なんだろうと偏見もってたんだけどなんのなんの。
これがおかしいったらありゃしない。
読んでる最中に何度吹き出しちゃうことか。
絶対「下妻物語」も読んで深キョンのDVDも観ようと心に決めてる。


もうひとつは「いつか棺桶はやってくる」。
予想もつかないストーリー展開で、読み終えるといつも
次号が待ち遠しくなるのよね。


作者の藤谷治さんには去年の夏の終わりにお目にかかったことがある。
「お目にかかった」というか、私が訪ねていったんだけど。
藤谷さんは下北沢のフィクショネスという書店の店主もしてらして、
藤谷さんのデビュー作「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」をどうせなら
作者ご本人から買おうとお店に行ったのだった。


藤谷さんの担当編集者(世界の中心で~」の編集者でもある)が
夫と同姓同名なのでそれを告げたら、編集者の奥さんと勘違いして
あわててらした。


ほんの短い時間だったけど、お人柄に触れた気がして作品を読んでるときも
より親近感がわく感じ。
「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」もすっごくおかしかった。
あとから息子もうひゃうひゃ笑って読んでた。


小説書く人ってすごい。
もちろん、「読ませる小説」「魅了する小説」を、って意味だけど。

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2005-01-13

石田衣良

読みたい本、気になる本はとりあえず買って手元に置いてあるものの
ここ最近はもっぱら大学のテキストと息子の問題集に追われっぱなし。
ゆっくり読書を楽しむのは3月になってから、と思っていた。


でも、ちょっと気が向いてひさしぶりに本らしい本を開いてみた。
石田衣良の短編集「約束」。


7つの物語のうち3つまで読んだのは11月ころだったか。
さらに3つ読んだ。


どの物語も、人物の痛みと悲しみがこころにささる。
だけど、傷ついた人があることをきっかけにして絶望の淵から這い出し
ふたたび自分の人生を行きなおそうとする姿には胸が熱くなる。


不登校の中学生の物語があった。
その男の子の両親はインテリで妙にものわかりがいい。
でも、息子との関係には温度が感じられない。
彼のことをわかったつもりになっているけど、実はなんにも。
考えてるのは自分たちの都合ばかり。


男の子は廃品回収のおじさん・源ジイに出会う。
この源ジイがあったかいんだな。
あったかくて、熱くて、かっこいい。


満身創痍の源ジイのあまりのかっこよさに、読んでてしびれた。
目の奥がつんとした。
本の中の男の子も泣いていた。


3月になったら、石田衣良の本、ごっそり読もう。

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2004-12-30

本が届きました

インターネットで注文した本が2冊届いた。


1冊は「シェイクスピア劇の登場人物―その性格と心理」。
シェイクスピアと心理学をからめた本があってもいいはず、
と「シェイクスピア」「心理」の2語で検索したらひっかかった本。
8つの戯曲の11人の登場人物についてユングの性格論で分析していく、
というもの。
もっともお気に入りのハムレットがないのが少々残念だけど、
ロミオとジュリエットはあるし、去年江守さんで観たリチャード3世もあるしで
迷わず注文した。
ぱらぱらめくってみたら、心理学の内容もさることながら
戯曲が原文と翻訳とで引用されていてすっごくおもしろそう。
その気になって原文を声に出してみると、やっぱり響きが美しい…


もう1冊は「ロミオとジュリエット」。
この間の舞台で翻訳していた松岡和子・訳のもの。
翻訳家によって作品はがらりと趣を異にしてしまう。
むかし読んだ岩波あたりのシェイクスピアはかなり古めかしかった。
「格調高い」というべきだったのかもしれないけど、
舞台劇としてのイメージがわかず、私にはちょっと退屈でした。
松岡さんの訳はすっと入ってくる感じがして、活字でも読みたいと思って注文した。


「ロミオとジュリエット」の巻末に「戦後日本の主な上演年表」があって、
1945年から1995年までの上演について紹介されていた。
つらつら眺めていたら、驚くべき出演者名を発見。
「1992年 グローブ座カンパニー ジュリエット:久本雅美」。


久本雅美? まちゃみ? まさか、同姓同名だよね?
気になるのでネットで調べたら、
まちゃみのプロフィールにちゃんと記載されていた。うそでしょ…


どうやらお笑いの舞台ではなかったようなんだけど、
どうしてもイメージがわかない。


うーん、まちゃみのジュリエットか。

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2004-10-05

変革に関わる体験

三砂ちづる著「オニババ化する女たち」を読んだ。
女性は、女性としてのからだとちゃんと向き合って生きないと
昔話に出てくるようなオニババになるよ、という本。


常々「そうじゃないかな~、こういうことだよな~」と思ってきたことを
理論だてて解き明かしてくれて、おもしろかった。


「変革に関わるような出産体験」というフレーズが出てきたが、
まさに私にとってどんぴしゃりな表現だと思った。


出産の前と後とでは、世界観ががらりと変わったものね。
いま「次の世代に何をどう引き継ぐか」と考える私がいるのは
ひとえにあの「変革」があったからだ。
それまでは、自分のことしか考えず、
「こどもなんてキライ」と言ってはばからなかったし、
大きくなったお腹から赤ん坊が生まれ出る瞬間まで
母親になる覚悟がぐらぐらしていた青臭い私だったんだから。


母はよく言ってた。
「お産って痛いのよ~。でも、こどもって産んでみるものよ」


青臭くて小生意気だった私が、
痛そうだけどいつか産むぞと思ってたのは、母が伝えてくれたおかげ。


確かに痛かったよ~。でも、産んでほんとうによかったよ。

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2004-10-03

こどもにとっての大人

いま大江健三郎氏の「二百年の子供」を読んでいる。
とても印象的なことばに、胸が突かれる思いがした。


「子供であることはくやしい、ほかの子供たちがあんなに痛そうなのに、
なにもしてあげられない」


中学二年の女の子・あかりが口にすることばだ。
このことばは物語から独立して、私の胸に刺さったまま。
「子供であることはくやしい」


そうだよね。
こどもはこどもであるがゆえに、できないことだらけだもんね。
でも、だからこそ大人が温かいまなざしで守り、
温かい手で育てなくちゃならないんだ。


こどもが犠牲になる痛ましい事件が絶えないけれど、みんな大人の責任。
こどもの誰もが大人に安心して自分をゆだね、心のうちを話せるなら、
どんなにのびのびできて、幸せなことか。


おとうさんも、おかあさんも、先生も、こどもを取り巻く大人たちは
かならずこどもにとって安心できる存在でなくちゃいけない。
だって、こどもは自分の環境を選べないんだから。

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2004-09-13

15歳

ハリー・ポッター五巻を読み終えた。


今回のハリーは15歳で、息子と同年代。
これまでもわが子の成長を遠くから見守るような心境で読んできた。
今回はその思いがことさら強かったように思う。


15歳はおとなとこどもの間を揺れ動くとしごろ。
私自身の15歳を思い出してみると、自分では十分おとなだと思っていた。
でも、いまの私からすれば、しょせん15歳は15歳。
経験も少なく、視野も狭く、思慮も浅く、やっぱりこどもだったと認めざるをえない。


でも、こどもだったけど混乱するほどにたくさんのことを思った。
もてあますほどにたくさんのことを感じた。
頭をパンクさせるほどにたくさんのことを考えた。
15歳ってそういう時期なのかもしれない。


おとなにとっては自分も通った道。
その先が見えてしまうから、心配や忠告をしたくなる。
15歳にはそれがうっとうしいのだろうけど。


うっとうしがられるのがわかってて、やっぱりしたくなる。

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2004-09-05

ひっかかりながら読んでます

ハリー・ポッター五巻を読んでいる。
上巻の6割まで進んだところ。


ハリーの心情描写には舌を巻く。
息子がハリーと同世代だから、さもありなん、と思う。
ローリングさんはたぶん、自分の15歳の時の心情をよく覚えているんだろうな。
たえずもやもやむかむかして、自分がコントロールできなくて、
自己嫌悪に陥る微妙な年頃のことを。


ただ、ときおり読んでてひっかかるんだよなぁ。
ローリングさんの描く世界に、ではなく、翻訳に。


「僕」と書いて「やつがれ」と読むなんて、はじめて知った。
いくら500年も前のゴーストのセリフだからって、「なんじゃ、そりゃ?」だ。


「謀られた(たばかられた)」なんて、時代がかってる。
ストレートに「だまされた」か、もしくは「欺かれた」っていうほうが
胸にすとーんと響くのに。


田舎訛りが福島弁、っていうのも違和感ある。
翻訳者がお国訛りに愛着を感じているのはわかるけど、
ちょっと読みづらいんだなぁ。
どこのことばと限定されず、それでいてなつかしさを感じさせる、
そんな訛りのほうがいいと思う。
たとえば、「日本むかしばなし」にでてくるみたいなね。


全部読み終えた息子が言ってた。
「なんかしっくりこないなって思ったのはさ、ハリーもロンも『僕』って言うこと。
そろそろ『俺』って言うよな、って」


ロンが友だち相手に「いみじくも」なんて言うかなぁ。
う~ん、ちょっと違うぞ、と14歳の息子をもつ母はいちいちひっかかるのでした。

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2004-09-02

なんだかちょっと釈然としないこと

きのうは始業式。
そして、「ハリー・ポッター」第五巻の発売日。


中三の息子は、きのう一日で上巻661ページを読み終えた。
今夜も彼はひたすら読む。
下巻701ページのすべてを早く知りたくて、一心に読む。


予習も受験勉強もそっちのけだけど、
読み終えてしまわないかぎり、気が気じゃなくてほかのことなんか手につかないだろう。
いいけどね。「とにかく読んじゃえ」って許したんだし。
イギリスで五巻が発売された日から、いまかいまかと1年以上も待ったんだしね。


日本語版の発売が、せめてあと一ヶ月早かったら、と思う。
こどもたちは気がねすることなく、こころおきなく、
朝から晩まで読書三昧できたよね。


「9月1日発売」にはいろいろ事情があるのかもしれないけど、
ハリーを心待ちにしているこどもたちのためには、
やっぱり夏休み中に出してほしかったなぁ。

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